東海大黄金世代・中島怜利が語る、箱根駅伝の価値と選手としての「火が消えた」瞬間 (3ページ目)
箱根駅伝優勝を経て、最上級生になった中島は最後の箱根6区で区間新、そして連覇を目標にしていた。だが、あることをキッカケにして、その気持ちが萎んでいった。
「僕は卒業後、関東の実業団でがっつり陸上をやりたいと思っていたんですが、3年の箱根が終わった時点で決まっていなくて......。いろんな実業団に自分からアクションを起こして聞いたんですが、ほぼ採用枠が埋まっていました。6区で大成した人がいないというのもネックになっていたのかもしれない。
最終的に大阪ガスに決まったんですけど、そこは陸上がすべてではなく、働きながら陸上もがんばりましょうというスタンスなんです。会社が地元の兵庫県だし、これから普通に走って30歳手前で引退するんだろうなって、リアルに先が見えてすっかり(意欲を失って)落ちついてしまった。選手の火はこの時、ほぼ消えました」
競技へのモチベーションが低下し、記録会やレースでは5000mで15分12秒72、10000mでも31分27秒37と、にわかには信じがたいタイムを出してしまった。それでも、両角監督に「(箱根に)勝負してみるか」と問われたが、「間に合わないです」とエントリーされる前に断った。
最後の箱根、黄金世代で出走したのは、鬼塚翔太(makes)、西川雄一朗(住友電工)、館澤亨次(DeNA)、小松、松尾淳之介(NTT西日本)、郡司の6名だった。
「もし、大学4年の時、僕や關(颯人・SGホールディングス)、阪口(竜平・On)、羽生(拓矢・トヨタ紡織)ら黄金世代と言われた選手が全員揃って、調子がいい状態で箱根駅伝に出場していたら、どうなっていたのか。誰が何区を走り、どんな記録が出ていたのか。
それを考えると楽しいけど、結局、僕らはその妄想のままで終わってしまった。みんな横並びで駅伝に合わせることができなかった。それが、僕らの黄金世代のおもしろいところであり、悪い所でもあると思います。
たとえば羽生は、『完全復活だ』と5回ぐらい言われていたけど、最後まで出てこなかった。全員が揃わず、いつまでも不完全なままだったから僕らの代は魅力があったと思いますし、今も記憶に残っているんだと思います」
(つづく)
著者プロフィール
佐藤 俊 (さとう・しゅん)
1963年北海道生まれ。青山学院大学経営学部卒業後、出版社を経て1993年にフリーランスに転向。現在は陸上(駅伝)、サッカー、卓球などさまざまなスポーツや、伝統芸能など幅広い分野を取材し、雑誌、WEB、新聞などに寄稿している。「宮本恒靖 学ぶ人」(文藝春秋)、「箱根0区を駆ける者たち」(幻冬舎)、「箱根奪取」(集英社)など著書多数。
【画像】徳光和夫が愛する「巨人」と「箱根駅伝」を語る・インタビューカット集
3 / 3