東海大黄金世代・中島怜利が語る、箱根駅伝の価値と選手としての「火が消えた」瞬間 (2ページ目)
入学後、中島が最初に山区間出走をアピールしたのは、7月の男鹿駅伝だった。両角監督から3区か4区を打診されたが、ほぼ下りの7区(8.38キロ)を走りたいと直談判した。そこで区間賞を獲り、夏合宿の箱根の山を想定した練習でも強さを見せた。夏に箱根6区への候補権を得て、11月には6区が決定した。
2年時は、夏までは平地区間が希望だった。だが、全日本大学駅伝の時、出走する選手は速いだけではダメという部活の現実を知った。
中島は9月の日体大記録会10000mで29分15秒38をマーク。10月の高島平ロードレース(20キロ)では、優勝した川端千都(SGH)と5秒差の59分35秒で2位に入った。次いで、國行麗生(大塚製薬)が5位(59分55秒)、三上嵩斗(SGH)が6位(60分34秒)だった。その結果からすれば、中島は出走できるはずだが、全日本の区間エントリーに名前がなかった。
「僕の最大の弱みは、練習があまり強くなくて、試合しか走れないことなんです。一方、練習で頑張っても、試合で結果が出ない選手がいる。そういう選手からすると、練習でできていないやつに試合だけ取って変わられたら、何のために練習がんばっているんだってなるんです。それを評価しないと、監督やチームに不信感が生まれてしまう。
試合で、『こいつ、走れないだろうな』ってなんとなくわかっていても、監督は練習で頑張っている選手を使わざるを得ない。それが学生スポーツの難しいところなんです。社会人だと、そんなこと一切なんですけどね。僕は、それで使われなかったタイプの選手でした」
悔しい思いを抱えて、中島は6区を決めるタイムトライアルに出て、前年のタイムを1分30秒も縮める圧倒的な走りを見せた。
「その瞬間から僕の箱根は、永遠に6区になりました」
大学2年の箱根は、6区で区間2位になった。迎えた大学3年の箱根では、チームが往路2位。6区の中島は、トップの東洋大に1分14秒差でのスタートになった。
「流れを作るのが、僕の役目。復路は自分からなので、責任感はあるけど、楽しかったですね。普通のレースならここで仕掛けられたらどうしようとか、きつい時、誰かに抜かれたらどうしようとか不安な気持ちがあるんです。でも、6区はうしろから来られることはほぼないし、負けることもないので、自分が好きなように走っていけば勝手に前との距離が詰まっていくって思っていました」
区間賞は57分57秒の区間新を出した青山学院大の小野田勇次に譲ったが、区間2位(58分06秒)でその差は、わずか9秒差だった。そうして東海大は、その中島をはじめ、メンバー全員が自分の力を出し切って優勝した。
「個人の思いはそれぞれあっても、優勝したい気持ちでひとつになっていた。僕を含めて、みんなそれぞれ自分の役割を果たしての優勝だったので、決して奇跡が起きたわけじゃない」
優勝し、中島は改めて箱根駅伝という世界の大きさを知ることになった。
「やっぱり箱根は特別ですよ。みんな、過去5年間の出雲や全日本の優勝チームや選手をたぶん覚えていないと思うんです。でも、箱根は多くの人が知っている。それは、箱根の価値がそうさせているんだと思うんです。
よく、青学大の選手は箱根にピークに持ってきて優勝するが、その後、あまり伸びないっていう声を聞くけど、それの何が悪いのかって思います。箱根で勝って知名度上げて、そこで得たものを実業団や今後の仕事に活かしていくのが大事だと思うんです。僕は今、陸上でビジネスができていますが、自分が好きなことをするために"箱根王者"を活かしています」
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