箱根駅伝をエースとして走る苦悩を元青学大・近藤幸太郎が振り返る「全然楽しくなかった」
「エース」。
箱根駅伝では、その存在がレースの行方を左右すると言われている。
エースは、別称で「大砲」とも「ゲームチェンジャー」とも言われるが、大学駅伝におけるエースとは、どんな選手で、どういう存在なのだろうか――。
会心の出来だったという全日本大学駅伝7区を走る元青学大のエース、近藤幸太郎(SGホールディングス) Photo by KYODOこの記事に関連する写真を見る
青学大でエースとして活躍した近藤幸太郎(SGホールディングス)は、こう語る。
「僕が大学時代、エースだなと思ったのは、田澤(廉/駒澤大―現・トヨタ)ですね」
1年時より駒澤大のエースとして君臨した田澤とは、近藤が3年でチームのエースになってから因縁の戦いが始まった。
「最初は正直、対戦するのがすごくイヤでした。同級生ですが、田澤は世界陸上を目指して走っている選手で、こっちはアマチュアの大会を走っている選手。ライバル校のエースだったのであれこれ言われるのは仕方ないですけど、『ぜんぜんレベル違うし』って思っていました」
ふたりが最初に対戦したのは大学3年時の全日本大学駅伝だった。7区を並走し、近藤は田澤に次いで2位、箱根駅伝ではともに2区を走り、田澤は区間賞、近藤は7位に終わった。大学4年になり、真のエースとなった近藤は、出雲駅伝3区で3位、全日本7区で区間2位に終わり、田澤とは4戦4敗だった。
「4年になってから出雲も箱根も田澤が出てくる区間は分かっていたんですけど、全日本だけ7区か8区か、どっちだろうと思っていたら同じ区間で......でも、それで覚悟が決まりました。駅伝シーズンに入ってから自分が田澤と戦うんだと洗脳されていたので、田澤しか見ていなかったです。でも、勝とうとは一度も思っていませんでした。どんな状況になっても田澤と30秒以内で次につなぐことを自分に課していました」
陸上は残酷なスポーツでもある。タイムが厳然たる現実で、近藤は大学ではトップクラスだったが、田澤は日本長距離界のトップクラスだった。そんな選手と比較されつづけた近藤の胸中は複雑で、決しておもしろくはなかっただろう。
だが、1度だけ、溜飲を下げたレースがあった。
大学最後の箱根駅伝、近藤は、2区を任され、吉居大和(中大)、田澤と激しいつば競り合いを演じた。駅伝対決5戦目にして初めて田澤を越え、吉居に次いで区間2位になった。
「この時は、(田澤が)コロナで体調を崩したと聞いていたので、ワンチャンあるなと思っていました。タイムで上回りましたけど、(田澤に)勝ったとは言えないですね。田澤は、3年の時、2区を単独で66分13秒で走っているんですが、それって大和の区間賞(66分22秒)より速いし、僕の記録より11秒も速いんです。そう考えると、やっぱり田澤は強いなって思いますし、本物のエースだと思います」
とはいえ、高いレベルでの走りを目指した近藤は、「いずれは」と思っていただろうし、その戦いは今も静かに継続している。
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著者プロフィール
佐藤 俊 (さとう・しゅん)
1963年北海道生まれ。青山学院大学経営学部卒業後、出版社を経て1993年にフリーランスに転向。現在は陸上(駅伝)、サッカー、卓球などさまざまなスポーツや、伝統芸能など幅広い分野を取材し、雑誌、WEB、新聞などに寄稿している。「宮本恒靖 学ぶ人」(文藝春秋)、「箱根0区を駆ける者たち」(幻冬舎)、「箱根奪取」(集英社)など著書多数。