苦難の社会人1年目を乗り越えた横田俊吾「勝負はラストに待っている」マラソン日本学生記録を引っ提げてMGCへ
2024年パリ五輪のマラソン日本代表の座を狙う、箱根駅伝に出場した選手たちへのインタビュー。当時のエピソードやパリ五輪に向けての意気込み、"箱根"での経験が今の走り、人生にどう影響を与えているのかを聞いていく。
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パリ五輪を目指す、元・箱根駅伝の選手たち
~HAKONE to PARIS~
最終回・横田俊吾(青山学院大学―JR東日本)後編
前編を読む>>横田俊吾「箱根で優勝しても面白くなかった」青学時代の激しいチーム内競争とあまりにも苦しかった箱根の記憶
今年2月の別府大分毎日マラソンでマラソン学生記録を打ち立てた横田俊吾この記事に関連する写真を見る
青学大時代、4年目で箱根駅伝の出走を果たし、3区を走り抜けた横田俊吾。「厳しく成長させてくれた」という学生時代を経て、次に挑戦する場として選んだのがJR東日本だった。
「僕は大学時代からマラソンをやりたいと思って、3年の時に別大(別府大分毎日マラソン)に出場しました。卒業後はマラソンで活躍したいと思っていたので、高校や大学の時と同じように強い所でやりたいと思ったんです。マラソンを第一に考えた時、自分の中ではJR東日本が一番だったんです」
横田が在籍していた青学大は、学生のマラソンへの挑戦を容認しており、大学3年の夏に、マラソンを走る決断をした。
「自分にスピードがあったらトラックをやっていたと思うんですが......自分が戦える場所はどこか探した時に、マラソンが一番勝負できるかなって思ったんです」
世界で戦えるということでマラソンに決めたが、そもそもマラソンを大学時代に走ろうという決断に至ったのは、大学1年の時に見た先輩の走りが影響している。
「吉田(祐也/現GMO)さんが、別大で走って2時間8分台で日本人トップを獲ったじゃないですか。普通は体のことを考えて挑戦しないと思うんですけど、吉田さんが大学生でも走れるんだっていうのを示したくれたのはすごく大きかったです。それを見て、僕も挑戦しようと思いました」
大学3年時、初マラソンになった別府大分毎日マラソンは30キロまで先頭集団に喰らいつくも、その後苦しみ、2時間12分41秒に終わった。レース後は、寒さと疲労で動けなくなり、医務室に連れていかれるほどのダメージを負った。
2度目のマラソンは、箱根駅伝が終わった後にトレーニングを開始した。だが、箱根駅伝を目標に陸上をやってきたため、出走したことで肉体的なダメージとともに燃え尽きた感があった。そのため、レース後の2週間はポイント練習をせずにおしゃべりしながらジョグをするなど気持ちをリフレッシュさせ、体を休める時間に充てた。
「その後、3週間ぐらいで上げていく感じなんですが、練習は(原晋)監督が箱根から別大までの練習メニューを持っているんです。それは吉田さんもやっていたもので、たとえば30キロ+2.195キロがあります。プラスの2.195キロはラストの苦しいところでスピードを上げることを意識するメニューで、大会前に2回ほどやりました。40キロ走は一度もなかったです。初めてマラソンを走った時は、コロナ禍でほとんど練習ができていなかったんですけど、今回はしっかりできていたので、最初よりは走れる感覚がありました」
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著者プロフィール
佐藤 俊 (さとう・しゅん)
1963年北海道生まれ。青山学院大学経営学部卒業後、出版社を経て1993年にフリーランスに転向。現在は陸上(駅伝)、サッカー、卓球などさまざまなスポーツや、伝統芸能など幅広い分野を取材し、雑誌、WEB、新聞などに寄稿している。「宮本恒靖 学ぶ人」(文藝春秋)、「箱根0区を駆ける者たち」(幻冬舎)、「箱根奪取」(集英社)など著書多数。