横田俊吾「箱根で優勝しても面白くなかった」青学時代の激しいチーム内競争とあまりにも苦しかった箱根の記憶

  • 佐藤俊●文 text by Sato Shun
  • photo by SportsPressJP/アフロ

2024年パリ五輪のマラソン日本代表の座を狙う、箱根駅伝に出場した選手たちへのインタビュー。当時のエピソードやパリ五輪に向けての意気込み、"箱根"での経験が今の走り、人生にどう影響を与えているのかを聞いていく。

※  ※  ※  ※

パリ五輪を目指す、元・箱根駅伝の選手たち
~HAKONE to PARIS~
最終回・横田俊吾(青山学院大学―JR東日本)前編

2021年の出雲駅伝でアンカーを務める横田俊吾2021年の出雲駅伝でアンカーを務める横田俊吾この記事に関連する写真を見る

 横田俊吾が陸上の強豪校である学校法人石川高から青学大への進学を決めたのは、高校進学の時と同じ理由からだった。

「僕は新潟県出身で中学から高校に進学する時、強い高校で頑張りたいと思って決めたのが学法石川でした。高校から大学に進学する際も同じ理由で、自分は強くなりたいのでレベルの高い大学に行きたいというのがありました。ただ、どこに行きたいというのはなくて、最終的に高校の監督と相談して青学大に行く事に決めました」

 青学大に入学すると、新潟の同郷で中学時代に競い合っていた岸本大紀(現GMO)、愛知からは近藤幸太郎(現SGH)ら全国から名の知れた選手たちが入学してきた。町田の寮に入り、先輩たちと顔を合わせると緊張感が増してきた。

「大学に入って、最初の頃はかなり緊張していました。同期が強力なメンバーで、一からのスタートになる。それに4年生の先輩とは、どうしても距離がありますし、やはり怖いって感じでした。今では、普通に話ができるんですけど(笑)」

 横田が1年生の時は、鈴木塁人(現SGH)が主将だった。前年に東海大に箱根駅伝を制され、鈴木主将を軸に箱根奪回に向けてスタートしたのでチーム内は少しピリピリしていた。横田は都大路を3年連続で4区を走った経験を持ち、大学でも1年目から3大駅伝に出場して活躍したいという思いを抱いていた。だが、春から波に乗れず、苦しい時期が続いた。一方、同郷で同期の岸本は、1年生ながら出雲駅伝2区区間賞、全日本大学駅伝25位と好走し、箱根駅伝はエース区間の2区を走り、5位と健闘して総合優勝に大きく貢献した。

「岸本が1年目からあんなに活躍するとは、僕も同期も思っていなかったです。箱根が終わった後、岸本がテレビとか表舞台に立つ姿を見ていたんですが、それがおもしろいとはまったく思えなかったですね。ただ、岸本といういい目標が僕らの学年にできたので、近藤や唯翔(中村/現SGH)らいろんな選手が追いつき、追い越せと頑張っていくことができたんです」

 近藤と中村は2年目から力をつけ、全日本大学駅伝と箱根駅伝に出場し、チームの軸になりつつあった。横田は、先輩たちが外部のトレーニングに行って強化をしたりするのを見て、自分なりに補強をしたり、ジョグの量を増やしたりしたが、それでもなかなか浮上できずにいた。

「自分の調子が上がらず、チーム内の競争に勝てなかったので、本当に苦しかったですね。でも、やめる選択肢はなかったです。中学から地方の高校、そして大学まで行かせてもらったので、ここでやめたら親に申し訳ないと思っていました」

 2年間、歯を食いしばって努力を重ねた結果、3年生になって、ようやく駅伝出場のチャンスを掴んだ。横田は、出雲駅伝でアンカーとして6区を駆け、4位から2位に順位を上げるなど区間3位の好走を見せた。

 だが、この走りは全日本大学駅伝や箱根駅伝に繋がらなかった。

1 / 3

厳選ピックアップ

キーワード

このページのトップに戻る