シドニー五輪4×100mリレー決勝でまさかの出走 補欠だった小島茂之は「行くかもしれないと言われて本当にドキッとした」 (3ページ目)

  • 折山淑美●取材・文 text by Oriyama Toshimi
  • photo by Nakamura Hiroyuki、Kyodo News

 結果としては、3走の末續がレース中に右太ももの肉離れを起こし、50m以上足を引きずりながら走る状況に。それでもバトンをつなげたが、38秒66で6位とメダルは届かなかった。

「末續も個人レースで準決勝まで3本走ってリレーも3本目だったので、もうギリギリのところでやっていたと思いますし、本当によくつないでくれたと思います。1走の僕のところからは遠かったので彼の走りはよくわからなかったけれど、ゴールのほうに戻ってきた時に脚を引きずってきたので、そこでケガをしたのを知りました。あとで映像を見たら『ここで明らかに肉離れをしている』とわかるくらいにガクッとスピードが落ちている場面があって、それでも必死につないでくれたので。本当に頑張ってくれたと思います」

 本来なら川畑が走るところだったこともあり、「『小島に替わったからダメだったよね』と言われたくないと思った」と言い、いきなり重役を任されて必死に走るだけだったが、2走の伊東にバトンを渡した瞬間にホッとしたという。そして今思えば、本当に貴重な経験をさせてもらったと振り返る。

 だが、その大舞台を走ったことで如実に感じたのは、自分の力がまだまだ足りないということだった。実際にあそこでパーフェクトな走りができたかといえば、そうではなかった。

「何回もレースを見直したけれど、やっぱり前のほうでバトンはつなげていなかった。自分がもっと高いレベルでいいレースができていれば展開も違っていただろうし、末續もケガをしなかったかもしれないと思います。1走の大切さを改めて感じました。だからあの五輪は、自分の力のなさを感じた大会でした。ただ出るだけではダメだ、出るだけのレベルではダメだなと。一緒に走る選手のなかには9秒台の選手もゴロゴロいるわけで、そんな選手たちとも対等に張り合えるようでなければリレーでも戦えない。

 A標準を突破して五輪に出たけど、10秒0台を出さなければ今後は代表に選ばれることもなくなると思い、『とりあえず強くならなければいけない。強くなりたい』と思いました」

 五輪という大舞台で初めて走れたうれしさがあった一方、目指していたメダル獲得には手が届かなかった。20歳の小島は自分の走りを冷静に見直し、次の目標を2004年のアテネ五輪へと定めた。

(つづく)

Profile
小島茂之(こじま しげゆき)
1979年9月25日生まれ、千葉県出身。
市立船橋高校時代から頭角を現し、早稲田大学進学後20歳でシドニー五輪の個人種目100mと4×100mの日本代表に選出された。その後、富士通へ進んだが、ケガに悩まされることも多く、2004年にアシックスへと移籍。2005年に日本代表に復帰を果たし、大陸対抗W杯では4継で銅メダルを獲得した。翌年のアジア大会100mで6位入賞を果たし、2009年に引退した。

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