世界への道を拓いた高野進。バルセロナ五輪400m決勝までの破壊と冒険 (2ページ目)

  • 折山淑美●文 text by Oriyama Toshimi
  • photo by PHOTO KISHIMOTO

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 その半面、もう少し手を伸ばせば届きそうなファイナリストの世界に未練があったことも確かだった。88年には43秒29を筆頭に43秒台が3人いて、高野の44秒90は世界ランキング22位だった。だが、ソウル五輪後はドーピング検査が強化された影響もあって、89年と90年はトップが44秒台に止まり、高野がソウルで出した記録は両年とも11位に相当していた。

 再び挑戦すると決めた高野は、新たなレースパターンの取り組みを開始した。それまでの競技生活で体が覚えている400mのプログラムとスピード感を破壊するために、100mと200mに専念して走りの感覚を変えることに努めた。そして91年の日本選手権で、前半の200mをソウル五輪より0秒6以上速い21秒3で通過し、44秒78の日本記録を出したのだ。

 高野はソウル五輪で逃した決勝進出を大きな目標に据えた、8月の世界陸上東京大会。2次予選を44秒91と全体の2番目のタイムで通過し、準決勝第2組では前半を21秒0で突っ込む攻めの走りで3位。ついに、夢のファイナリストを実現した。

 決勝は45秒39で7位。だが、「今までの10数年間は、僕が世界に近づくのに必要な時間だったと思っている。400mに関しては、僕は他のプロ選手以上に研究もしているし、科学的トレーニングもして、彼らに負けないだけの努力をしている。後半をもっとしっかり走れるようになれば、メダル争いには食い込めると思う」と、さらなる進化も意識していた。

「今度こそ本当に最後の挑戦」と考えて臨んだバルセロナ五輪。「新たに前半型の能力を作りあげ、地元・東京の応援を追い風にできる世界陸上で決勝に残れたら、その自信を持って次のバルセロナまで行こう」と考えたその戦略どおりに進んできた。だが、そこからの道は厳しかった。

 シーズンイン直前の3月には肩を脱臼し、5月末には何とか45秒59まで戻したが、6月の日本選手権は渡辺高博(早稲田大)と同タイムでやっと勝つ状態だった。さらにその後はアキレス腱を痛めて練習ができず、本番へ向けたチェックポイントだけは無理やり集中して、合格ラインの結果を出していくのが精一杯だった。

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