2020東京パラにつなぐ。50年前に日本人が受けた衝撃 (3ページ目)

  • スポルティーバ●文 text by Sportiva
  • 竹藤光市●写真 photo by Takefuji Koichi

中村 今度その関係で、アジアドリームカップという、アジアの車いすバスケの大会を別府で7月に行なう準備をしていて、それに先ほどのラオスのチームも呼ぶつもりなんです。

伊藤 きっとラオス選手たちが日本に来たら、64年東京パラリンピックの時の日本人選手のように、自分たちとは違う生活を送っている選手に驚くでしょうね?

中村 そうでしょうね。1964年当時は、日本がちょうど戦後から高度成長期に入る直前ぐらいの頃で、初めて車いすの欧米人が来て、日本の障がい者とは違って、銀座に買い物に行ったり、どこかに飲みに行ったりしていました。おそらく当時の日本人にとって、すごく新鮮だったのではないかなと思います。

伊藤 そうですよね。日本人が当時驚いたことは、レガシーだと思います。そういうことを残していくというか、もっともっと伝えていかないと、と思います。

中村 そう思います。あの当時、日本で障がいのある人がバスケットをしているのって多分別府しかなくて、父は自分の患者さんに「明日からバスケットをやりなさい」という感じだったと思うんです。パラリンピックのときも、今まで全くスポーツもしたことがなかった患者さんに「今度パラリンピックがあるから出なさい」っていうような。

伊藤 私、その時のエピソードを何かで読んで素晴らしいなと思ったのが、裕先生が脊椎損傷の患者さんに、「君は下半身が動かないけれど、それ以外は何も悪いところがないからバスケをしなさい」とおっしゃったことです。何気ないかもしれませんが、「それ以外悪いところがないから」という、その言葉にものすごい深さを感じました。

中村 そうですね。グットマン氏の「失われたものを数えるな。残っているものを大切にしろ」の教えから父が学んだあとの話だと思います。

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