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フェンシング・松山恭助が「精神的にきつかった」という苦悩から脱することができた「大きな転機」 (2ページ目)

  • 折山淑美●取材・文 text by Oriyama Toshimi

――東京五輪の団体は、3位決定戦で当時世界ランキング1位のアメリカに敗れました。男子エペ団体の金メダル獲得を見て刺激もあったのではないですか。

 彼らが成し遂げたのを見て、うらやましさと悔しさがありましたが、自分たちは地に足をつけて1戦ずつ戦わなくてはいけないというマインドでやりました。惜しかったとは思いますが、あの時の実力から考えたらあれが限界だったかなと。東京五輪前は、チームとしても個人としても、本当の意味でのメダル争いをできていなかったので、やっぱりチャレンジャーでした。

 ただ、無観客ではあったけど五輪を経験したことは、その後の自分の3年間においてはすごく大きかった。そこに出たからこそのリアルな五輪の空気感などを、悔しさも含めて感じました。それを糧に次の3年間を過ごせたので、確実に大きな経験にはなりました。東京五輪、男子フルーレ団体の3位決定戦でアメリカに敗れて4位に。左が松山 photo by JMPA東京五輪、男子フルーレ団体の3位決定戦でアメリカに敗れて4位に。左が松山 photo by JMPAこの記事に関連する写真を見る――通常なら4年ですが、パリまで3年しかなかったというのもよかったですか。

 自分たちにとってはよかったと思います。次は必ずリベンジするっていう気持ちが切れず、エネルギー不足にはならなかった。4年後となると、その気持ちを持って戦うには少し遠すぎる。これからロサンゼルス五輪を目指していくことになりますが、あまりにも遠くて大きな目標なので、まずは1シーズンずつできることをしっかりやっていくというのが一番の近道になる。その意味で東京からパリの3年の意識とは違いますね。

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