【平成の名力士列伝:安美錦】関取在位史上1位タイ 数多のケガを強さの源にしてきた「稀代の業師」
安美錦は、時に重傷のケガを負いながら不屈の魂で戦い続けてきた photo by Kyodo News
平成とともに訪れた空前の大相撲ブーム。新たな時代を感じさせる個性あふれる力士たちの勇姿は、連綿と時代をつなぎ、今もなお多くの人々の記憶に残っている。
そんな平成を代表する力士を振り返る連載。今回は、度重なるケガにも負けず土俵を沸かせた安美錦を紹介する。
連載・平成の名力士列伝10:安美錦
【横綱・貴乃花の現役最後の相手】
類い稀な巧さとセンスが詰まった業師(わざし)ぶりで平成の土俵を沸かせた安美錦は、まさに相撲をやるために生まれてきたと言っても過言ではなかった。
相撲どころの青森県出身で、保育園の文集にはすでに「大きくなったらお相撲さんになりたい」としたためていた。初めて廻しを締めたのは3歳の時。近所の相撲道場で青森県相撲連盟会長も務めた父親の英才指導を受け、「生まれたときから相撲取りになるものだと思っていた。相撲以外の職業は考えたこともなかった」と本人も語っている。
入門から3年半の平成12(2000)年7月場所、21歳で新入幕を果たすと10勝をマークして敢闘賞を獲得。117キロの幕内最軽量ながら、頭をつけて相手に食い下がり、出し投げで崩して攻める取り口は好角家をも唸らせ、土俵際で回り込んで勝機を見いだすしぶとさも、若き相撲巧者の持ち味だった。
再入幕の平成13(2001)年3月場所以降は幕内に定着し、1年後の3月場所で初の技能賞を獲得。平成15(2003)年1月場所には横綱・貴乃花への初挑戦で初金星を挙げ、この一番限りで引退した「平成の大横綱」最後の相手としても脚光を浴びた。
その2場所後には11勝を挙げて2度目の技能賞を受賞。安美錦の土俵人生は順風満帆に見えた。だが、平成16(2004)年名古屋場所で右ヒザの前十字靭帯を断裂する大ケガを負って暗転する。医師からは手術を勧められたが、患部にメスを入れれば復帰までに半年以上を要することから、迷った末に26歳を目前にした年齢も考慮し、手術を回避。ケガとはうまく付き合っていくことを決意した。
重傷をきっかけに、意識は大きく変わった。本格的に増量にも励み、取り口も変貌を遂げることになる。
「前は押し込まれて我慢してという相撲しか取れなかったけど、ヒザに負担をかけないように、前に出ようという意識になった。体も大きくなって踏み込みの圧も出てきた」
1年後の平成17(2005)年9月場所には横綱・朝青龍を初めて撃破し、金星をゲット。さらにその翌年の9月場所は優勝戦線にも名を連ね、11勝で3度目の技能賞を獲得し、翌場所は新小結に昇進した。
しかし、いいことばかりではなかった。過酷な増量は、苦痛も伴った。枕元にはおにぎりやハンバーガーなどを常備し、目が覚めては口の中に押し込んだ。体重は「届くとは思わなかった」という150キロを超え、もはや小兵の体型ではなくなった。155キロに到達すると首回りが太くなり、喉元を圧迫。食べ物がなかなか通らないばかりか、呼吸も苦しくなり、肝臓も異常をきたした。
「相撲的にはよかったけど、日常生活が苦しくなって、もう限界かなと」
無理な増量はやめたが、相撲ぶりは業師というよりは、まずは立ち合いでしっかり当たって相手を押し込み、積極的に前に攻める力強い内容が目立ってきた。
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プロフィール
荒井太郎 (あらい・たろう)
1967年東京都生まれ。早稲田大学卒業。相撲ジャーナリストとして専門誌に取材執筆、連載も持つ。テレビ、ラジオ出演、コメント提供多数。『大相撲事件史』『大相撲あるある』『知れば知るほど大相撲』(舞の海氏との共著)、近著に横綱稀勢の里を描いた『愚直』など著書多数。相撲に関する書籍や番組の企画、監修なども手掛ける。早稲田大学エクステンションセンター講師、ヤフー大相撲公式コメンテーター。