オリンピック3回出場 女子トライアスロンの草分けがタクシーアプリのドライバーになるまで (2ページ目)

  • 辛仁夏●文 text by Synn Yinha

【W杯で日本人初の表彰台に】

 バイクもランも未経験ながら、根っからの負けず嫌いだった庭田さんは、楽しさをパワーに変えてめきめきと力をつけて、本格的に競技を始めて2年後には出場した大会で優勝し、あっという間に注目のトライアスリートになった。それがシドニー五輪からオリンピックの正式種目になることが決まった翌年の1995年のこと。トライアスロン界が有望な人材探しで盛り上がっていた時期でもあった。

「96年3月に、これからオリンピックに挑戦する人を見つけようと、日本トライアスロン連合(JTU)が企画した第1回の強化指定の認定記録会があって、お付き合いがあった自転車屋さんに言われて出たら、ギリギリで合格してワールドカップ(W杯)に出られるという通知が来てしまったんです。

 いきなり実績のないニューフェースの選手がW杯に出ることになり、自転車を車で運べる近距離の大会だけに出たのですが、完走できずに終わりました。恥ずかしさと情けなさに加え、協力してもらった人たちへの申し訳なさもありました。それで、どの日本選手よりも最初に、私が国際大会で一桁順位に入ってみんなを驚かせたいと、ひそかに闘志を燃やし始めていましたね。それからはすごく練習するようになり、いろんな練習メニューを考えたり、いろんな場所に出稽古に行ったりしました」

 その成果はすぐに結果に出た。アメリカ・クリーブラントで開催された96年世界選手権に初出場して完走。最下位から2番目の成績だったが「めちゃめちゃうれしくて泣いて喜んだ」という。

「それからですね。もっとやってみたいなと思うようになりました。これまでは飽き性だったので何をやってもダメだった。でも、これは自分に合っていそうだなと、何かが見つかった気がして、自然とトライアスロンに本格的に取り組むようになりました」

 97年にはプロとして活動しないかという声が掛かり、本格的にプロアスリートとしての競技活動が始まった。それからの庭田さんの活躍は目覚ましく、97年W杯蒲郡大会では準優勝して日本人初の表彰台に上るなど、現役時代は数々の大会で好成績を挙げて第一人者となっていった。類まれなオリンピアンは、現役時代をこう振り返った。

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