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追悼・錣山親方~部屋の弟子だけでなく、多くの力士に愛された「熱血漢」を偲ぶ (2ページ目)

  • 武田葉月●文 text&photo by Takeda Hazuki

「井筒三兄弟」はファンの注目を浴びて、寺尾は一躍人気力士になった。1985年春場所(3月場所)、新入幕を果たすと、甘いルックスと筋肉質の体型に魅せられた女性ファンが続出。両国の井筒部屋には、連日"寺尾ギャル"が押し寄せた。ファンレターはコンスタントに1日20通。バレンタインデーには、毎年ダンボール3箱ものチョコレートが届いた。

 寺尾の持ち味は、回転のいい突っ張り。どんなに大きな力士にも、立ち合いから果敢な突っ張りを見せて、そのスタイルを貫いた。また、「花のサンパチ組」(昭和38年生まれ)の一員でもあった。寺尾を含め「サンパチ組」は、横綱・北勝海、大関・小錦、関脇・琴ヶ梅ら錚々たるメンバーが揃っていたが、寺尾自身は「オレは"サンパチ組"のおまけだから」と、人気に溺れることはなく、常に謙虚だった。

 そんな寺尾にとって、忘れられない一番がある。

「若貴兄弟」として入門時から注目を集め、異例のスピード出世で幕内に昇進した18歳の貴花田(当時、のち貴乃花)との取組だ。

「自分は28歳で、彼より10歳年上。相撲界に入ってまだ3年。学年で言えば、高校3年生。『そんな若造に負けられないよ!』と思っていたのに、負けちゃった。あのとき、花道でさがりを叩きつけて悔しがった自分の態度に批判の声もあったけれど、それくらい悔しくて忘れられない一番です」

 1991年春場所の出来事を、ついこの前の出来事のように振り返る寺尾。その後、貴花田は貴乃花として大横綱への道を歩むことになるのだが、2002年秋場所(9月場所)で寺尾が現役を引退。それから4カ月後の2003年1月、貴乃花も引退し、互いに相撲部屋の師匠として、若い力士を育成する立場となった。

 2004年1月、井筒部屋から独立して錣山部屋を創設した当初、弟子は3人。部屋の建設が間に合わなかったため、賃貸マンションの一室を相撲部屋とし、稽古場は近くの物流倉庫の一角に構えてのスタートだった。

 初期メンバーのひとり、豊真将(元小結=現・錣山親方)は相撲の素質がありながら、日大相撲部を退部。将来を決めかねていたところを拾われた。40代前半の親方は、稽古土俵で自ら胸を出して豊真将を鍛えた。ときに鉄拳も飛ぶなか、期待に応えた豊真将は約2年で十両昇進を決めた。

 なお、部屋のなかで、弟子同士が諍いを起こしたときは、「どんなにケンカをしても、最後にはちゃんと仲直りをしろ! 同じ釜の飯を食べる兄弟弟子同士がいがみ合うなら、オレも混ざってケンカするぞ!」と言って聞かせたという。

 2006年に入門して、マンション住まいを経験した寺尾海が今年6月に行なわれた自身の断髪式の場で当時のことを振り返っていた。

「師匠なりのケンカ両成敗。これが効くんですよ(笑)。私生活でも稽古場でも厳しい師匠でしたが、"優しさ"があったから、みんなが付いていったんです」

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