新濱立也、北京五輪後は「やめたい、逃げたいという自分がいた」。どん底から救ったのは周囲の温かさ (3ページ目)

  • 宮部保範●取材・文 text by Miyabe Yasunori
  • 田中 亘●撮影 photo by Tanaka Wataru, JMPA

「お疲れさま」の温かい言葉

 しかし、新濱は五輪後のW杯や世界選手権に出場していても、五輪での失敗を引きずっていた。

「本当にスケート人生のどん底だなって。北京五輪まで4年間やってきて、世界記録や日本記録も出したし、世界スプリントも獲って年間のワールドカップの総合優勝も。本当にとんとん拍子で多くの成績を残してきたにも関わらず、この五輪が重要なのに、4年間してこなかったミスをしてしまった。自分はついてないなというか、なんか本当に持ってないなと終わった直後は感じてしまった。これ以上は厳しいんじゃないか、限界なのかなって。世界選手権、W杯ファイナルと残ったレースすべてで、少なからず五輪のことを考えながら滑っていましたから」

 柄にもなく自身の可能性を疑った。

「五輪直後はもうやめたいな、ここから逃げたいなという自分がいたのは正直なところです。でも、やっぱりW杯ファイナルで2連勝できたことで、まだ世界で自分は戦える立場にいるし、まだまだ上にいけるなと感じられました。オフを迎えて、スケートからちょっと離れて考える時間が多くなって、ここでやめたら悔いが残るんじゃないかとも思い始めました。そういった意味ではあと4年間チャレンジして、最後、本当にいい形でスケート人生を終えられればいいなとも」

 新濱は、他人と自分を比べることなく、自分自身のスケートと向き合ってきた。五輪を目指しながらも、テレビで五輪を見ることすらしなかったという。だからなのか、思い描いていた結果を携えることなく地元の北海道別海町尾岱沼に帰って挨拶まわりをした時の周囲の反応に驚いた。

「地元に戻っていろんな方々に会えました。自分が直接関わってきた人以上に、親の仕事仲間や町の皆さんが応援してくださっているのを実感しました。親からはこの4年間ずっと、『いろんなところで、みんなが応援してくれてるよ』と聞いてはいました。メダルも獲れずに合わせる顔がないなと思いつつも地元に帰ってみると、多くの方から、『お疲れさま』と労いの言葉をいただいて、たくさん応援してもらっていたんだなって感じました。ここまでやってきてよかったし、本当に温かい町に生まれたんだと、あらためて感じました」

 周囲の温かさが、スケートをまだ続けたいという思いをあと押しした。

「これから恩返しないといけないなっていう思いがあふれてきました」

新濱(右)と、インタビュアーを務めた元スピードスケート選手の宮部保範新濱(右)と、インタビュアーを務めた元スピードスケート選手の宮部保範この記事に関連する写真を見る(終わり) インタビュー前編から読む>>

【profile】
新濱立也 しんはま・たつや 
スピードスケート選手。高崎健康福祉大学職員。1996年、北海道野付郡別海町生まれ。3歳からスケートを始め、釧路商業高校3年の時、インターハイで500mと1000mで優勝。高崎健康福祉大学進学後、2019年3月のW杯最終戦・男子500mで33秒79を出し、当時の日本記録を大幅に更新。2020年2月の世界選手権スプリント部門で優勝。2022年2月の北京五輪は男子500mで金メダル候補とされたが、20位に終わった。

宮部保範 みやべ・やすのり 
元スピードスケート選手。1966年、東京都生まれ。父親の転勤に伴い、北海道や埼玉県で学生時代を過ごす。埼玉・浦和高校、慶応義塾大学を卒業後、王子製紙に進む。1992年アルベールビル五輪に弟の宮部行範とともに出場し、男子500mで5位、1000mで19位。1994年リレハンメル五輪は500mで9位。

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