アイスホッケー池田涼希が語る五輪への道。ラグビー日本代表のように「地獄の合宿に挑戦したらいい」 (2ページ目)

  • 佐藤俊●文 text by Sato Shun

 札幌出身の池田がアイスホッケーを始めたのは4歳の時だった。

 父が大のアイスホッケー好きで、兄がすでに始めていた。その兄の練習を見に行った際、「面白そうだな」と思って始めた。

「最初、すごく楽しかったです。でも、小学校に入る頃に一度飽きてしまって(苦笑)。特にやりたいことはなかったんですけど、ただ友人と遊びたくて。でも、1年ぐらい経ったら、またやりたくなって、父に『やらせてください』と言ったら『今後一生やめると言うなよ』と言われて、それが今も続いている感じです」

 小学生の時は札幌ノースウルフアイスホッケークラブでプレーし、中学からは札幌フェニックスに入り、中3時はキャプテンだった。ただ、北海道におけるアイスホッケーの中心地は札幌ではなく、苫小牧、釧路、帯広が御三家だ。非常にレベルが高く、インターハイもほぼその御三家の高校が制している。高校でもアイスホッケーを続けたいと思っていた池田にとって、どこに進学するのかは重要な問題だった。

「進学は、すごく迷いました。そんな時、小中とお世話になった人たちが(札幌の)北海高校を勧めてくれたんです。北海高校は、戦術が高度で種類も豊富、将来日本代表に入った時すごく役に立つし、他のチームに行ってもすぐに順応できるようになる。先のことを見越して勧めてくれたので、北海高校に行くことを決めました」

 北海高校では、インターハイを制することはできなかったが、大学で池田はその日本一の夢を果たすことになる。

 アイスホッケーの強豪といわれた明治大学への進学を決めたのだ。

「実は、小学校の頃から明治に行こうと決めていました。明大は僕が子どもの頃、札幌で合宿をしていてうちのクラブの練習に参加してくれていたんです。その時のパスの精度とか、パスを出す位置とか技術が本当にすごくて、その時に絶対に明大に行くって決めたんです」

 明大では10番をつけ、大学3年時にはインカレ3連覇、関東大学リーグ戦など3冠を2年連続で達成した。個人的にもリーグ戦得点王、MVPにも輝き、4年時には主将を務めた。誰もが10番はプロへの道を歩むだろうと見ていた。

 だが、池田は冷静に進路を考えていた。

「大学3年の時から進路を本格的に考えていて、その時は6:4で就職を考えていました。30歳までホッケーをやって、やめた後、一般企業で他の人と働くことができるのか。ホッケーしかしてきていない人を企業がとってくれるのか、すごく心配だったんです」

 2018年12月には、日本製紙クレインズがシーズン終了後での廃部を決め、アイスホッケーを取り巻く環境はさらに厳しさを増していた。そういう状況下で、アイスホッケーに人生を賭けるのに躊躇する気持ちは容易に理解できる。

「大学4年になって、いよいよっていう時に今GRITSにいる川村(一希)さんから『横浜GRITSだとホッケーと仕事を両立できるから大丈夫だよ』と声をかけられたんです」

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