横綱・鶴竜の転機。「弱い自分を
吹っ切ることができた」瞬間とは?

  • 武田葉月●取材・構成 text&photo by Takeda Hazuki

向正面から世界が見える~
大相撲・外国人力士物語
第3回:鶴竜(3)

 大相撲秋場所(9月場所)は、御嶽海の優勝で幕を閉じた。先場所の名古屋場所(7月場所)で賜杯を抱き、連続優勝が期待された横綱・鶴竜は、8日目に左膝を負傷し休場。不本意な結果に終わった。また、その直後、師匠の井筒親方(元関脇・逆鉾)が突然この世を去った。2001年、16歳の時にモンゴルから来日して以来、紆余曲折あった横綱が、これまでの相撲人生を振り返りつつ、敬愛する亡き師匠への思いを語る――

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 日本に来た時は体重が60㎏台だった私も、入門後は着実に体重を増やすことができました。ただ、100㎏を超えてからはなかなか増えなくて......。

 転機になったのは、2004年名古屋場所(7月場所)で、三段目で全勝優勝し、翌場所にポーンと幕下14枚目に番付が上がったこと。幕下15枚目以内というのは、7戦全勝優勝したら十両に上がれる特別な地位です。いきなり上がったから、案の定跳ね返されましたけど、対戦相手がみんなでっかくて、「この体じゃ勝てないな」と心底思いましたね。そこから、火が付いた部分もあります。

 その頃、同じ年に入門した白鵬関と安馬関(当時=のち日馬富士)は、ひと足早く十両昇進を決めていました。日本式の学年区分だと、3月生まれの白鵬関は私(8月生まれ)より1学年上になりますが、モンゴル式だと同じ学年。やっぱり「同級生には負けたくない!」というのはありますよね。

 私が十両に昇進したのは、2005年九州場所(11月場所)、20歳の時でした。けれども、力不足だったため、5勝10敗と負け越し。兄弟子の寺尾関が2002年に引退していて、ようやく井筒部屋から関取が誕生したというのに、たった1場所でその座を明け渡さなければいけなくなった。その悔しさといったら......。

 千秋楽の打ち上げ会場で沈んでいた私に声をかけてくださったのが、部屋の行司である式守輿之吉(のち36代・木村庄之助)さんでした。

「アナンダ、悔しいのか? 明日から1週間、部屋の稽古は休みになるけれど、『稽古をしてはいけない』という決まりはないんだよ。悔しいと思うなら、土俵に上がって稽古したらどうだい?」

 このアドバイスはうれしかったですね。翌朝から私は悔しさを土俵にぶつけ、弱い自分を吹っ切ることができたのです。

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