鍵山優真を育てた振付師・佐藤操が振り返る少年時代。合言葉は「誰よりも頑張ろう」 (3ページ目)

  • 辛仁夏●文 text by Synn Yinha
  • 能登直/JMPA●撮影 photo by Noto Sunao/JMPA

「鍵山先生が帰ってきた時に驚かせたい」

『かっこいいから僕も出たいと最初は思ったけど、かっこいいだけでは出れないんだなとわかった。それでもやはりオリンピックの舞台に参加したい』と言う彼を見て、目標がある選手に携わる側としてうれしかったし、あれはとてもいい機会だったと思います」

――佐藤さんが最初に鍵山選手を見た時、どんなスケーターだと思いましたか。

「小学6年の時に、軽井沢から横浜に引っ越してくることが決まり、私がスタッフとしてお仕事を一緒にするようになったのが中学1年の夏からでした。まだ子どもでしたが、実際教えてみたらすばらしい選手で、やはり父親のDNAなんでしょうね。体からにじみ出る柔らかさがありました。

 もともとスピンがジャンプより好きだったみたいで、スケートの質はよかったです。性格的にはあまり前に出るタイプではなく、シャイでした。いまだに『あなた、かわいい顔してるから、女装も似合うわよ』と言ったら『そんなのやめてください』と言うぐらいです。私の提案については、最初の一瞬は『そんなの、僕にできますか?』ということを当時はよく言っていました。

 ちょっと足を伸ばしたらきれいに見えたり、ちょっと笑顔にしたら曲とマッチしたりするということを、私の専門なので提案したんです。その時によく話し合う時間を取れたのも、よかったかなと思います。私が指導スタッフに入ったことで、表現のレッスンをするという形で新しい知識を入れることができたし、たまたまその当時、友野一希君や田中刑事君がうちのリンクにエキシビションを作りに来ていて、私と一緒にプログラムの振り付けをしているの見たりする機会もあったので、刺激を受けたと思います」

――正和さんが病気になって、代理コーチを務めるようになってからはいかがですか?

「鍵山先生が倒れられた後、優真がひとりでリンクに戻ってきました。私は鍵山先生から『不在の間、よろしく』と連絡をいただき、『もちろん、抜かりなく見張りますよ』と言いました。『誰よりも頑張ろう』というキーワードをふたりで合言葉にして、鍵山先生が帰ってきた時に絶対に驚かせたいし、褒められたいということになりました。

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