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中谷潤人が元世界ヘビー級王者と訪れたモハメド・アリのライバル「ジョー・フレージャー」像を前に「僕も、そんなレベルのチャンピオンになりたい」 (2ページ目)

  • 林壮一●取材・文・撮影 text & photo by Soichi Hayashi Sr.

【ロッキーのモデルになったトレーニングで世界の頂点へ】

フィラデルフィア美術館にあるロッキー像フィラデルフィア美術館にあるロッキー像この記事に関連する写真を見る

 フレージャーは1944年1月12日、アメリカ合衆国サウスキャロライナ州ビューフォートで生を享(う)けた。13人きょうだいの下から2番目。南北戦争後に解放された多くの黒人たちと同様、フレージャー家も小作人として生きた。農園の脇に建てられた4部屋の小屋で、15人の家族は肌を寄せ合って暮らした。父親はフレージャーが生まれる1年前、酔っぱらいに左腕を撃たれ、右手一本で農作業を続けていた。12子は、その姿を目にしながら育った。

「苦しいだけの日々だった。やり場のない怒りがあった。姉たちは学校で教養を身につけたいと話していたが、俺は物心がついた時から、父と一緒に働いた」

 フレージャーは世界チャンプとなったあと、そう振り返っている。

 手製のサンドバッグを農園の木に吊るし、時間の許す限り、それに向かってパンチを放った。15歳になったフレージャーは収入を見込めない故郷を離れ、都会に出る。ボクシングジムに通えて、労働にもありつける場所として選んだのがフィラデルフィアだった。毎朝5時に起床し、ロードワークに出る。その後、食肉処理工場で生活費を稼ぎ、夕方からジムで汗を流した。

「牛の体から流れる血を溝に送り、作業場をきれいに保つのが主な仕事だった。勤務時間よりも早く職場に行って、吊るされている牛肉をサンドバックのように殴ったもんだよ。シルベスター・スタローンが『ロッキー』で活用したシーンは俺がモデルさ。スタローンは、アイディア料を払ってくれなかったけれどな」

 1964年の東京五輪で金メダルを獲得後、プロに転向する。この時の世界ヘビー級王者は、4年前のローマ五輪の金メダリスト、モハメド・アリだった。やがてアリはベトナム戦争への徴兵を拒否したことから、タイトルを剥奪されブランク期間を作る。

 その間に最重量級の頂点を極めたのがフレージャーである。彼を筆頭に、フィラデルフィアは多くの世界チャンピオンを輩出してきた。

 中谷は、フレージャー像を見詰めながら言った。

「フィラデルフィアは、ボクシング・タウンですね。僕を知ってくれている人がけっこういましたし、ロスよりもボクシング熱が高い気がします」

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