ケンコバが語る、名レスラー馳浩の「一番ダメな試合」を救った越中詩郎の「震え」
ケンドーコバヤシ
令和に語り継ぎたいプロレス名勝負(14)
越中詩郎「禁断の試合」 後編
(前編:越中詩郎の「禁断の試合」 ザ・コブラのための大会で目撃したある異変>>)
ケンドーコバヤシさんが語る、デビュー45周年を迎えた越中詩郎の禁断の試合。前編のザ・コブラ戦に続き、後編では当時売り出し中だった馳浩との一戦を語る。
1988年2月7日、馳浩戦でヒップアタックを見舞う越中詩郎 photo by 山内猛この記事に関連する写真を見る
【"プロレス名人" 馳浩の「ダメ試合」】
――「越中さんの出来次第では、その後に冷遇されるかもしれなかった」という試合を「禁断の試合」として語っていただいていますが、1986年のザ・コブラ戦のほかにもうひとつあるそうですね。
「それは、1988年2月7日、札幌・中島体育センターで行なわれた馳浩戦です」
――それは、ジュニアの最強決定リーグ戦「トップ・オブ・ザ・スーパージュニア」の優勝決定戦ですね。新春黄金シリーズを通じて開催された、12選手が参加したリーグ戦で、勝ち点が41で並んだ越中さんと馳さんが札幌大会で激突しました。
「当時、新日本プロレスの馳さんの売り出しがすごかったんです。前回お話したザ・コブラもそうでしたけど、それをしのぐプッシュのされ方で、キャッチフレーズとして超新星を意味する『スーパー・ノヴァ』と言われていました」
――馳さんは1987年、海外遠征に帰国した初戦でいきなり小林邦昭さんを倒し、IWGPジュニアヘビー級王座を奪取しました。
「12月27日の両国国技館ですね。この年の5月、ジャパンプロレスとして全日本プロレスを主戦場にしていた長州力さんたちが新日本にUターン。かなりの高待遇での復帰だったので、ファンの間でも『これから、長州さんが新日本で天下を獲るんだろうな』というのが目に見えていました。
その長州さんの専修大学の後輩で、レスリングで1984年のロサンゼルス五輪に出場した馳さんは、"秘蔵っ子"として寵愛を受けていました。凱旋帰国してからは、ザ・コブラ以上の"スーパー・ノヴァ大売り出しセール"が新日本マットで展開された。だから俺は、ザ・コブラ戦以上に『越中さん、この試合の出来次第では冷遇されるぞ』という危機感を抱いていたんです」
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