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藤波辰爾が「邪魔だった」長州力の反逆。数々の名勝負はガチの憎しみをぶつけた (3ページ目)

  • 松岡健治●取材・文 text by Matsuoka Kenji
  • photo by Tokyo Sports/AFLO

 鳴かず飛ばずの現状を、藤波への反逆で逆転させようとする長州。さらなる飛躍を邪魔され、本気で長州を嫌悪する藤波。2人のリアルな感情のぶつかり合いが「名勝負数え唄」を生み出した。

 数ある激闘の頂点としてファンに認識されているのは、シングル3戦目となった1983年4月3日の、蔵前国技館での一戦。過去2戦を遥かに上回る激しさ、スピード感で試合が展開され、藤波は長州のリキ・ラリアットを食らって敗れた。

「負けた時に、長州がセコンドのマサ斎藤さんと抱き合って喜んでいたんです。その姿を見た時、『長州、いい顔をしているな』と思いました。負けた悔しさはもちろんあったんですけど、長州のあんないい表情は、それまで見たことがなかった」

 この試合は、『東京スポーツ』が制定する「プロレス大賞」で年間最高試合賞を獲得した。その後もライバルとの抗争は続いたが、長州は1984年9月に新日本を離脱し、「ジャパンプロレス」を設立。翌年1月から全日本プロレスへ参戦したため「名勝負数え唄」は途切れた。

 しかし長州は、2年後の1987年に新日本に復帰する。その後、猪木が参院議員となりリングの第一線から退いた1989年夏には、長州が試合の全権を握るマッチメイカーに就任した。

 一度は団体を離脱した"出戻り"の長州が現場を仕切ることに対して、新日本で戦い続けていた藤波に抵抗はなかったのだろうか。

「まったくなかったですね。長州と激しくぶつかり合ったことで、プロレスへの考えが同じだということがわかったからです。リング外でじっくり話をすることは、ほとんどありませんでした。だけど、長州が試合を組む上で考えていることは理解できましたし、彼のことを信頼していました」

 藤波も信頼したマッチメイカーの長州は、数々のドーム興行を成功に導くなど、1990代の新日本プロレスの黄金期を築きあげた。その後、藤波は新日本の社長に就任するも2006年に退団して新団体を設立。一方の長州も、1度目の引退、現役復帰、退社、再復帰と、互いに紆余曲折のプロレス人生を歩んだ。

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