プロレスファンを魅了した数々の異名。「燃える闘魂」の名づけ親が語る誕生秘話 (3ページ目)

  • 松岡健治●取材・文 text by Matsuoka Kenji
  • photo by 平工幸雄/アフロ

 全日本選手権を制するほどの柔道家だった坂口は、1967年に日本プロレスに入団。当初の異名は「若鷲」だった。

「これは、日本プロレスの幹部と取材していた記者が試行錯誤して考えたフレーズでした。ただ、『若鷲』はデビューして2、3年ぐらいは通用しますが、いつまでも若くはないわけで、違うフレーズが必要だなと考えていたんです」

 日本プロレス末期の1971年12月に「猪木が会社の乗っ取りを計画した」として追放され、翌1972年にはジャイアント馬場も退団。ダブルエースが不在となった日本プロレスで新たなエースになったのが坂口だった。この時期に、舟橋は「世界の荒鷲」というフレーズを思いついたという。

「『荒鷲』は、坂口さんの荒々しいパワーファイトをそのまま表現したんです。そこに『世界の』とつけたのは、馬場さんも猪木さんもいなくなった日プロのリングで、世界のレスラーと肩を並べる存在は坂口さんだけだという思いがありました」

 坂口は大木金太郎とのコンビでインターナショナル・タッグ王座を戴冠。翌1973年には新日本プロレスに移籍した猪木とタッグを組み、経営状態が苦しかった新日本プロレスを救った。1989年には社長に就任するなど、表と裏、双方から新日本を支え続けた。

 舟橋が考えたのは"異名"だけではない。「長州力」というリングネームも命名している。本名の吉田光雄で1974年8月にデビューした長州は、すぐにヨーロッパや北米などに海外武者修行に出た。そこから凱旋帰国する1977年に、中継の番組内で新たなリングネームを視聴者から公募した。

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