【国際プロレス伝】巨大勢力に立ち向かった帝王バーン・ガニアという男 (2ページ目)

  • 宮崎俊哉●取材・文 text by Miyazaki Toshiya
  • photo by AFLO

 来日したガニアは、浜口のそんな性格を数回会っただけで見抜いたからこそ、絶対的な信用を寄せたのだろう。もしかしたら、浜口の目を見ただけで瞬時にわかったのかもしれない。

 1926年、アメリカ・ミネソタ州で生まれたガニアは、子どものころからスポーツ万能だった。ミネソタ大学に進学し、1948年のロンドンオリンピックでレスリング・フリースタイルのアメリカ代表となったかと思えば、アメリカンフットボールの最高峰NFLでもシカゴ・ベアーズからドラフト指名を受けてプレーした。

 その運動能力を買われたガニアは、1949年に「期待の新人」としてNWAと契約。プロレスデビューを果たすと、1951年には早くもNWA世界ジュニアヘビー級王座決定トーナメントで優勝した。

 さらに1958年には、エドワード・カーペンティアを破って世界ヘビー級王座を獲得。ガニアはたちまち人気・実力ともにスター選手へと登り詰めた。同時代に活躍した「鉄人」ルー・テーズもガニアのことを、「正統派ベストレスラーのひとり」として認めている。

 ところが1960年、ガニアはNWAのサム・マソニック会長ら上層部との確執から団体を離れ、新たにAWAを設立。NWA世界ヘビー級チャンピオンだったパット・オコーナーを招聘し、AWA世界ヘビー級初代チャンピオンに認定した。

 しかし、オコーナーがガニアとの対戦を拒否したため、自らAWA世界ヘビー級王座に就き、以後20年間にわたって通算10回も王座を獲得。また、そのベルトをNWA世界ヘビー級王座に匹敵するビッグタイトルにしただけでなく、トップレスラー兼プロモーターとしてAWAをNWA やWWWFと並ぶメジャー団体へと押し上げた。

 ガニアが初めて来日したのは1970年。2月5日、大阪府立体育会館でストロング小林とAWA世界ヘビー級タイトルマッチを行ない、ドローで王座を防衛する。その際、国際プロレスと業務提携し、同時期に来日していたモンスター・ロシモフ(後のアンドレ・ザ・ジャイアント)ビル・ロビンソンと知り合い、彼らをアメリカに進出させてトップレスラーへと育て上げた。

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