【国際プロレス伝】「人間風車」2種類のダブルアーム・スープレックス (3ページ目)

  • 宮崎俊哉●取材・文 text by Miyazaki Toshiya
  • photo by Nikkan sports/AFLO

 1975年、ロビンソンはカール・ゴッチに誘われて新日本プロレスへ。さらに1976年からはドリー・ファンク・ジュニアの仲立ちで全日本プロレスと契約する。1977年3月にはミル・マスカラスとのドリームタッグでジャイアント馬場&ジャンボ鶴田をストレートで破る伝説などを残した。そして1985年、現役を引退。

 ジャイアント馬場から全日本プロレスのエースの座を引き継いだジャンボ鶴田の得意技は、ロビンソンから学んだ点が多いと言われている。また、プロレスのスタイルもロビンソンをベースにしていると語るファンも多い。

 1992年にはUWFインターナショナル横浜大会でニック・ボックウィンクルとエキシビションマッチを行なうなど、その後も来日を続けたロビンソンは、1999年から元UWFインターナショナルの宮戸優光が主宰する「UWFスネークピットジャパン」のヘッドコーチに就任。ジム近くの東京・高円寺に住み、2009年にアメリカ・アーカンソー州リトルロックへ移った。そして2014年2月27日、死去。享年75歳だった。

「『日本が第2の故郷』と言ってくれていましてね。浅草でやっていた女房の店にもよく来ていただきました。ビール、ワイン、ウイスキー、紹興酒、日本酒、焼酎......なんでもOK。いくら呑んでも、乱れるということはなかったですね。お酒も強かったですよ。まさに、"ストロング"。国際プロレスから新日、全日に移った後、アントニオ猪木さんやジャイアント馬場さんと60分勝負を繰り返していたことを考えると、スタミナも無尽蔵だったんでしょうね。

 また、お酒を呑みながら、娘の京子にいろいろ教えていただきました。インターバル走や、相手の手の切り方など。レスリング好き、指導好きなんでしょうね。高円寺のスネークピットジャパンで若者を指導しているときも楽しかったんじゃないですかね。

 鞄にレスリングシューズとタイツだけを詰め込み、世界各地を飛び回って戦ってきた『人間風車』は、レスリングをこよなく愛す、根っからのレスラーだったんですね。誠心誠意、一生懸命やってきたことへの自信が風格となった英国紳士の姿を、僕はビル・ロビンソン先生から見せていただきました」

(つづく)
【連載】アニマル浜口が語る「国際プロレスとはなんだ?」

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