【国際プロレス伝】浜口平吾から「アニマル浜口」へ。ついに野獣誕生 (5ページ目)

  • 宮崎俊哉●取材・文 text by Miyazaki Toshiya
  • photo by Nikkan sports/AFLO

 日本で金網デスマッチをやったのも、国際プロレスが初。ラッシャー木村さんはドクター・デスに日本初の金網デスマッチで勝って(1970年10月8日@大阪府立体育館)、それから"金網デスマッチの鬼"と言われました。グレート草津さんを"チェーン・デスマッチの鬼"に仕立てようとしていたという話もあったそうですし。

 専用バスも画期的だったなぁ。あれは楽でしたよ。椅子を倒すと、ホントゆっくりできましたからね。もちろん、遠いところは飛行機や列車でしたけど。今はそこそこの団体ならどこも専用バスを持っていますが、あの当時は国際プロレスしかなくてね。社長は本当に僕たち選手のことを考え、大事にしてくれました。

 社長はアイデアマンで、先見の明があったんでしょうね。そうか......、日本プロレスで営業をやっていたから、そのとき苦労して学んだこともあるんでしょうかね。でも、"営業マン"と言うと弁が立つというか、口がうまいというか、失礼ですけどそんなイメージがありますが、吉原社長はそんなことはまったくなかったなぁ」

(つづく)
【連載】アニマル浜口が語る「国際プロレスとはなんだ?」

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