【男子バレー】小川智大はパリ五輪メンバー落選に「泣きました」 それでも現地に帯同した理由 (2ページ目)
「たとえ次のロス(五輪)を目標にできなかったとしても、行ったことが悪い方向に行くことはない。行かないのはマイナスだと思ったし、オリンピックも"生で観たい"って感覚でした。
物事は捉え方次第だと思っています。落選自体、楽観的になれるものではない難しさはありましたが、自分がバレーボール選手として生きていくため、と考えて帯同しました」
つまり、安っぽい犠牲精神ではない。
「自分にとって、プラスになることが最優先でした。もちろん、ずっと一緒にやってきたチームにメダルを獲ってほしかったし、リベロがいれば練習でチームが回ることもありました。でも、"チームをサポートする意識"が先じゃなかったです」
いい子ぶることはしない。自らの糧にするため、彼はパリにいた。ひとつのプロフェッショナリズムだ。その姿勢を貫いてきたからこそ、小川はリベロとしてその域に到達できているのだろう。
【上でやるならリベロしかない】
神奈川県・横浜市出身、小学生3年で始めたバレーだが、とても厳しいクラブだったという。ただ、その厳しさが日常だったため、当時は普通に思っていた。基礎となるレシーブの形を体に刻みつけた。それがリベロの原型になったが、365日中、250日は涙を流す日々だったという。それでも、彼は食らいついた。
「小学校時代の環境がすべて。なかったら今はないはず」
そして、こう続けた。
「でも、本当にずっと泣いている感じでしたよ。メンバーを外されては涙を流して、『キャプテンとして終わっているよ』と言われては、また泣いていました(苦笑)。"これだけやっているのになんで!"って思ったし、悔しかったんだと思います」
小川は感情量が豊富な選手なのだろう。彼自身、とびっきりの泣き虫だったことを認めるが、必ずしもネガティブなことではない。涙を流すたび、自分と向き合って、より強くなる。感情を爆発させられることは、大成するアスリートのひとつの方程式だ。
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