大友愛が明かす全日本離脱の真相。面談でも監督に「あなたとはやれません」 (2ページ目)
――高校を卒業後、2000年にNECレッドロケッツに入団します。
「NECに決めたのは、父が竹下佳江さんのすごいファンだったからなんです。他の実業団のチームにも誘っていただいたんですけど、父が『竹下選手のトスを打て』と(笑)。当時のNECはVリーグのトップチームで『(練習に)ついていけないんじゃないか』と思いましたし、私は宮城が好きで離れたくない気持ちもあって乗り気ではなく、『新幹線に乗るのも嫌だ』と言っていましたね(笑)。
それまで父に怒られたことがなかったんですが、その時は『見学に行ってみないと、どんなところかわからないだろ』と諭されました。半ば引きずられるように見学に行ったら、当時の監督の吉川正博さんが選手と一緒に練習していて。仙台育英に決めた時とまったく同じで、熱血系の指導に胸を打たれ、NECに入ることになりました」
現在は4児を育てる母に photo by Matsunaga Kokiこの記事に関連する写真を見る――入団前の心配もよそに、NECでは1年目でレギュラーになり、翌年には日本代表にも選出されます。その後、女子バレーは低迷が続いたことで2003年に監督が柳本晶一さんに変わりました。ただ、大友さんは合宿の途中で代表を離脱してしまうというエピソードもありましたね。
「ロシア遠征に行った時に、試合会場の2階でビデオを撮りながら日々データを取っていたんですが、それに納得できず......。もちろん、そういった役割はチームに欠かせないんですが、当時の私は、好きなメンバーと目標に向かって思い切りバレーをすることが一番で、日の丸をつけることに特別な意味を感じていなかったんです。だから自分を必要としてくれているNECで、リーグ優勝に向けて練習をしたほうがいいと思い、『私はビデオを撮るために来たんじゃありません。帰ります』と柳本さんに伝えました」
――だいぶストレートな物言いですね(笑)。
「実はその前にも、最初の柳本さんとの面談で『あなたとはやれません』と言っちゃったんです(笑)。"若さ"で許されることでもないですが、それまで私は『監督を優勝させるため』と思ってプレーしてきました。その点で、柳本さんは熱血というより統率力がある方ですから、当時は『上からモノを言う人だな』と思ってしまって......それでビデオ係になって練習もできない、試合にも出られないとなった時に、代表から離れる行動を取ってしまったんです」
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