1964年、日本中を熱狂させた女子バレー「東洋の魔女」の本音 (4ページ目)

  • 中西美雁●文 text by Nakanishi Mikari
  • photo by Kyodo News

「もう、全国からいっぱいお手紙をいただいて。いろんな方にいろんなことを言われました。『絶対にオリンピックに出てくれ』というのも、『もうあなたたちは十分よくやった』というのも。私も『一番いいときにスパッと辞めたい』という気持ちがあったんです。でも、先生が『あんたたちが決めればいい』と言われて、一番年長の河西さんが『私はやります』って。河西さんがやりますと言ってるのに、『じゃあ私は辞めます』とは言えないですよ(笑) どうしてもお一人、体調が良くなくて辞めた方がいるんですけど、彼女の分までお互いカバーできるかどうかも話し合って、結局は五輪まで続けることになりました」

 それまでは、大松の指導も「誰のためでもない、自分のために勝つんや」というものだったし、自分たちもそう思ってやってきたのが、五輪までの2年間だけは違った。「純粋に『お国のためにやらなければ』と思いました。『負けたらもう日本にはいられないかも知れない』っていう思いもありました」

 五輪開催中のことは、決勝戦以外のことはあまり覚えていないという。

「試合の時も畳とお布団で寝たいという私たちのお願いが通って、大会中も選手村にはちょっと顔を出したきりで、日本旅館に泊まっていたんです。だけど、この間、控えの人達と話したら、彼女たちは選手村だったというんです。旅館に泊まっていたのはレギュラー組だけだったと。でも全然記憶になくってびっくりしちゃいました。みんな一緒だったような気がするのに」

 そして、失セットわずか1で迎えた運命のソ連との決勝戦。鈴木文彌アナウンサーが「金メダルポイント!」と6回も叫んでいた時(※当時はサーブ権があるチームのみ加点)、コート上のみんなが、最後のポイントを「自分が決めてみせる」と思っていたという。

「サーブを打つ人はみんな『私のサービスエースで決めてやる』と思っていましたし、アタックを打つ人もそう。最後は、宮本(現姓・寺山)恵美子さんのサーブで、私は前衛レフトに上がってきていたんですけど、絶対私が打って決めてやるって思ってました。『河西さん、お願い私にトスを上げて!』って。結局、宮本さんのサーブから、ソ連がオーバーネットと、後衛の選手が前衛で攻撃をした二重の反則で勝ったんですけど、最初は何で得点したのか分からずに、みんなきょとんとしちゃいました。一拍おいてからワーって」

「実はね、6回の金メダルポイントなんですけど、そのうちの1回、相手のアウトサーブを触っちゃった人がいたんです。最近になって笑い話で、『あなたがあのサーブを触らなかったら、もっと簡単に勝てたのに』って茶化せるようになったんですけど、当時はとてもそんなことを言える雰囲気ではなくて」

 国民的英雄となった五輪後は、大阪にあった日紡を辞めてしばらく東京で過ごした。国体で東京代表になって東京が優勝し、大阪の人達にずいぶん叩かれたりもしたらしい。

「あんなに大阪に世話になっておきながら、東京を優勝させるだなんてけしからん! って言われましたよ」

 金メダルの獲得で、バレーは人気スポーツの一つになり、特に女性には「ママさんバレー」として普及した。

「海外に遠征に行くと、私たちはみんな独身で、会社で仕事をしながらバレーをやっているけど、あちらは違ったんです。結婚して、お子さんもいて、ご主人やお子さんが応援に来ているんですね。そういうのを見ると、私たちもああいう風に家庭に入ってからもバレーを続けたいねって思うようになって、話し合ってママさんバレーをやろうって。私たちの金メダルのあと、うわーっとママさんが盛んになったと聞いています」。

 井戸川さんは、今はプレイはしていないものの、大阪・池田市の体育館に勤務し、前期後期冬期の年に3回指導を行っているという。

 昨年の東京五輪招致に関連する報道をずっと見てきて、改めて自国でオリンピックを開催することの大変さを知って、「コロッと負けちゃわなくて本当に良かった」と笑う井戸川さん。

 最近のバレーは、東京五輪が決まって、若手に切り替わってから、ちょくちょく見るようになった。「今のバレーはリベロという拾う専門のポジションができて、サーブ権もなくなって、私たちの時代とはずいぶん変わってしまいましたが、やっぱり全員が拾って打つつもりでいてほしいですね。もちろんリベロの子は打てませんけど、それ以外の子たちは。ロンドン(五輪)は、最後(3位決定戦)だけ見ました。メダルを獲って喜んでいるところ。やっぱりメダルを獲ることはいいものだなと。ロンドンで銅なら、次のリオは銀、そして、その次の東京五輪ではまた金メダルを獲って欲しいです」

 東洋の魔女から50年、井戸川さんは少し冗談めかしながらそう締めくくった。

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