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ラグビー日本代表No.1のハードタックラー 梶原宏之は全盛期の27歳で東芝を退社し、山梨で高校教員となった (3ページ目)

  • 斉藤健仁●取材・文 text by Saito Kenji

【わずか5年で東芝府中を退社】

 梶原と薫田のコンビは強烈だった。FWの中心として筑波大を引っ張り、大学3年時には早稲田大を相手に勝利まであと一歩(0-3で惜敗)と迫り、明治大には21-15で勝利。関東ラグビー対抗戦で2位、大学選手権ではベスト8に進出する原動力となった。

 大学後の進路についても当然、多くのチームから誘われた。梶原は「自分に合っている」と感じた新日鐵釜石か東芝府中、どちらに行くか悩んだという。最終的には父のアドバイスもあり、郷里の山梨から近い東芝府中を選んだ。

 東芝府中に在籍した時期(1989年〜1994年)は、ちょうど神戸製鋼の7連覇と重なっており、日本一のタイトルを手にすることはできなかった。そして1994年、梶原は父の病気も理由のひとつに東芝府中を退社し、山梨に戻って高校教員となった。

 当時27歳。日本のトップ選手が地元に帰って教員になったことは大きな驚きだった。

 しかし、梶原は不撓不屈の精神で、ラグビーを疎かにしなかった。仕事が終わったあとにアマチュアチーム「勝沼クラブ」でトレーニングを重ね、代表選手としての地位を守り続けたのだ。

 1995年のワールドカップから2年後、梶原は日本代表の一線から退く。その後は「子どもたちを強化・育成して、スポーツを通じた人間育成をしたい。自分の経験したことを子どもたちにも味わってもらいたい」と、一貫して指導者としての道を歩んでいる。

 1997年には桂高ラグビー部の監督となり、初の花園出場に導いた。また、母校の日川高にも赴任して全国大会に出場するなど、山梨の高校ラガーマンを鍛え続けた。

 2019年ワールドカップ日本大会ではアンバサダーを務め、山梨県教育委員会も歴任。現在、山梨学院大のラグビー部の監督として後進の指導にあたっている。

「ラグビーは『One for All, All for One』と言われるように、助け合いの精神が大事。足が遅くても、センスがなくても、泥臭く挑戦していけば、チームのためになる」

 世界を知る梶原の活動は、間違いなくラグビー全体の底上げに貢献している。

著者プロフィール

  • 斉藤健仁

    斉藤健仁 (さいとう・けんじ)

    スポーツライター。 1975年4月27日生まれ、千葉県柏市育ち。2000年からラグビーとサッカーを中心に取材・執筆。ラグビーW杯は2003年から5回連続取材中。主な著書に『ラグビー『観戦力』が高まる』『世界のサッカーエンブレム完全解読ブック』など多数。

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