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ラグビー日本代表No.1のハードタックラー 梶原宏之は全盛期の27歳で東芝を退社し、山梨で高校教員となった (2ページ目)

  • 斉藤健仁●取材・文 text by Saito Kenji

【オールブラックスに真っ向勝負】

 その試合で強烈なインパクトを残した梶原は、それから9年間、日本代表に欠かせぬFLとなった。1991年と1995年のワールドカップメンバーにも、主力のひとりとして選ばれる。

 1991年大会では、ハードタックルを武器にアイルランド戦でトライ。記念すべきワールドカップ初勝利となったジンバブエ戦でも存在感を示した。しかし、梶原がワールドカップで最もインパクトを残したハードタックルは、1995年大会のニュージーランド戦だろう。

 日本は開幕から2連敗を喫し、すでに予選プール敗退が決まっていた。一方、すでにトーナメント進出を決めているオールブラックスは、出場機会の少ないフレッシュなメンバーを揃えてきた。そんな相手に、日本は17-145の歴史的大敗を喫する。

 のちに「ブルームフォンテーンの悪夢」とも呼ばれた試合は、前半を3-84で折り返すという一方的な展開となった。しかし後半、最後まであきらめる姿勢を見せない梶原がオールブラックスに一矢を報いる。

 後半47分、中央でのスクラムからFB松田努が抜け出すと、その動きをフォローした梶原が左中間にトライを奪取。さらに後半65分、梶原が相手反則からクイックタップで攻め込むと、CTB吉田明が縦にゲインしたあとをサポートして再びトライ。梶原の奮闘がなければ、歴史的大敗の点差はもっと開いていたかもしれない。

 スコットランド戦で見せた梶原のハードタックルは、生まれ故郷に由来する。山梨県勝沼町(現・甲州市)に生まれ、実家はぶどう農家。自然に囲まれた環境で足腰が鍛えられたという。

 梶原は中学生まで野球をやっていたが、地元の先輩の勧めもあってラグビーの強豪・日川高から競技を始めた。「最初はタックルが怖かった。でも、監督に褒められて自信がついた」。猛練習の甲斐あって、梶原はすぐに頭角を現し、高校2・3年時では花園ベスト4まで勝ち上がった。

 花園での活躍はすぐに関係者の目止まり、多くの大学から声をかけられたという。しかし「将来は教員、指導者となって、山梨に戻ってきたかった」という理由で筑波大に進学。のちに東芝府中や日本代表でチームメイトとなる同期のHO薫田真広とは、そこで知り合った。

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