ラグビー日本代表に戦後最年少19歳3カ月で抜擢 増保輝則の「11番」は早稲田でも神戸製鋼でも目立っていた (2ページ目)
【元木由記雄とのコンビネーション】
その勢いのまま、増保は大学2年時に日本代表入りを果たす。そして1991年5月、アメリカ戦で初キャップを獲得。チーム最年少で1991年のラグビーワールドカップにも出場し、52-8で勝利したジンバブエ戦でトライも挙げた。
大学を卒業し神戸製鋼に入社した増保は、順風満帆のラグビー人生を歩んでいた。4年後の1995年ワールドカップにも日本代表の主力として出場を果たす。しかし、ニュージーランド戦では17-145の歴史的な点差で惨敗。増保は戦犯のひとりに挙げられ、当時の心境は「どん底でした」と語っている。
しかし増保は、そのままでは終わらなかった。
「これ以上のトレーニングはできないってくらいの準備を整えていった。本当の意味で『ワールドカップに出場した』と思えたのが1999年でした」
大きな覚悟で臨んだ3大会目。結果的に白星を挙げることはできず、日本代表は予選プール敗退となる。だが、増保は恩師・平尾誠二監督のチームで全力を出しきれたことに胸を張った。
「日本代表でのベストトライは?」と質問したことがある。すると増保は、1998年10月に行なわれたワールドカップ予選での韓国戦と香港戦のトライを挙げた。両トライともCTB元木由記雄のパスからだったという。
「(元木と)何のコミュニケーションも取らなかったのに、阿吽の呼吸でトライできた。自分ひとりじゃなくて、連動性というか......なんとなく雰囲気で取れたトライで、すごくよかったですね」
元木とのコンビネーションは、ともに長年プレーした神戸製鋼で培われたものだ。明治大の元木とは同い年で、大学ラグビーの頂点を競い続けた長年のライバル。1994年、ふたりは揃って深紅のジャージーに腕を通し、いきなりポジションを掴んで神戸製鋼のV7達成(1988年度〜1994年度)に貢献した。
しかし7連覇の2日後、予想外の出来事が襲う。阪神・淡路大震災だ。
増保は当時を振り返る。
「優勝よりも、震災からの復興のほうが大変だった。こういう状況でラグビーをしてもいいのだろうか──そう思ったが、多くの人に声をかけられて心強かった」
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