日本ラグビー史上No.1の司令塔・松尾雄治 伝説の「13人トライ」を生んだ天才が30歳で引退するまで (3ページ目)
【腰痛が治ることはなかった】
大学4年時は36戦無敗の早稲田大を倒して2度目の大学選手権優勝。さらに日本選手権も勢いに乗って三菱自動車工業京都を下し、悲願の初優勝に導いた。
新日鐵釜石に入社後、1976年度の日本選手権でも優勝に貢献するも、前年の秋から調子が悪かった腰を治療すべく「選手生命をかけて」椎間板ヘルニアの手術を敢行。そして長いリハビリの末、1978年度から始まる日本選手権V7の歴史を築いていった。
1974年に初選出された日本代表では、1984年まで「不動の司令塔」として24キャップを獲得。当時はラグビーワールドカップこそなかったものの、1979年のイングランド代表戦(19-21)や1983年のウェールズ代表戦(24-29)は松尾を代表するテストマッチとして知られている。キックとパスによるゲームコントロールはピカイチで、世界にその才能を十分に証明した。
ただ、腰痛が完全に治ることはなかったようだ。
「そろそろ潮時だった。寂しい気持ちはあったが、悔いはない。最後の試合、(国立競技場の)大観衆の前でプレーできて幸せでした」
釜石のV7達成とともに、31歳を目前にして惜しまれつつも引退した。
引退後はスポーツキャスターとしてラグビーの普及活動に尽力し、2004年から2012年までは小・中学校を過ごした成城学園の成城大学ラグビー部監督も務めた。大学選手権優勝2回、日本選手権優勝8回。松尾雄治は記録にも記憶にも残る「日本ラグビー史上ナンバーワン」のSOだ。
著者プロフィール
斉藤健仁 (さいとう・けんじ)
スポーツライター。 1975年4月27日生まれ、千葉県柏市育ち。2000年からラグビーとサッカーを中心に取材・執筆。ラグビーW杯は2003年から5回連続取材中。主な著書に『ラグビー『観戦力』が高まる』『世界のサッカーエンブレム完全解読ブック』など多数。
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