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日本ラグビー史上No.1の司令塔・松尾雄治 伝説の「13人トライ」を生んだ天才が30歳で引退するまで (2ページ目)

  • 斉藤健仁●取材・文 text by Saito Kenji

【SOへの転向で才能が開花】

 社会人大会を制し、続く日本選手権は65,000人の超満員に膨れ上がった国立競技場。迎えた相手は、大学選手権3連覇を達成し、キャプテンCTB平尾誠二やLO大八木淳史らを筆頭に「打倒・釜石」に燃える同志社大だった。

 この大一番を「引退試合」と決めていた松尾は、左足にケガを負っていたものの、麻酔を打って強行出場した。その影響もあって釜石は2トライを先制されて、前半12-13とリードを許してしまう。しかし後半、松尾の好リードやアシストによって形勢は逆転し、釜石が31-17の逆転勝利で日本選手権V7を達成した。

「同志社大は強かった。(勝因は)FWで勝つことと、ゲームメーカーの平尾を動かせないようにしたこと。(7連覇できたのは)一人ひとりが一生懸命やったからかな」

 その後、敗れた平尾と大八木は悔しさを胸に神戸製鋼へと進み、10年後に同じくV7を達成することになる。この時はまさか、誰も想像していなかっただろう。

 1954年、松尾は東京都渋谷区に生まれた。立教大ラグビー部でFLとしてプレーした父・雄氏の影響で、幼少から水泳、柔道、バスケットボールなどさまざまなスポーツを経験し、ラグビーも小学校5年から始めた。

 高校1年時に成城学園から私立目黒高(現・目黒学院)に転校し、高校3年時には花園で準優勝を成し遂げる。そして高校時代に明治大グラウンドで練習していた縁もあり、松尾はそのまま明治大に進学した。

 大学1年時には大学選手権の決勝で早稲田大と対戦。当時SHだった松尾の華麗なパスによってWTB渡辺貫一郎(3年)の決勝トライが決まり、明治大が初の大学日本一に輝いた。

 大学3年時には日本代表にSHで選出。しかしその直後、明治大を率いる名将・北島忠治監督にSOへのコンバートを言い渡される。予想外の転向指示に「ラグビーを辞めるか」悩んだこともあったが、気持ちを切り替えた松尾はその後、SOの才能を大きく開花させていく。

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