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ラグビー日本代表「ゴールデンブーツ」廣瀬佳司のキックの極意「蹴るのではなく、股関節でボールを運ぶ」 (2ページ目)

  • 斉藤健仁●取材・文 text by Saito Kenji

【タックルは怖かった。だけど...】

 4年後の1999年大会の直前、ファンの間で意見が二分する議論が沸き起こった。ワールドカップを戦うチームの司令塔に、廣瀬の2学年下である岩渕健輔の「攻撃力」を推す声が出てきた。

 注目を集めるなか、日本代表を率いる平尾誠二監督は、廣瀬の「キック」と安定感を採った。本大会3試合とも10番を廣瀬に託し、勝利こそ手にできなかったものの、世界の強豪国相手に体を張ったタックルとゲームメイクを見せてくれた。

 身長170cm、体重74kg。体は小さかったものの、タックルも厭わぬ精神力の強さがあった。左耳の「カリフラワーイヤー(餃子耳)」は、愚直にプレーした証(あかし)だ。何度もタックルを試みる理由について、廣瀬はこう語っていた。

「どのチームもSOを狙ってくる。SOがゲインされると、どのチームもしんどいし、ゲームメイカーとして信頼感もなくなってくる。だから、怖かったですけど、体を張ってタックルすることで、周りの14人の信頼感を得ました」

 2003年のワールドカップ直前、日本代表はケガ人が続出したこともあって、再び廣瀬に白羽の矢が立った。スコットランド戦の先発に抜擢された廣瀬は、この試合でも低いタックルを繰り返した。その日本の善戦ぶりは海外メディアの心を打ち、「ブレイブ・ブロッサムズ(勇敢な桜の戦士たち)」という日本代表の愛称につながったことでも知られている。

 1973年、廣瀬は大阪で生まれた。父親がラグビー経験者だったため、幼いころからテレビで試合を一緒に見ていたという。そして小学1年の冬、廣瀬は「ラグビー場に連れて行って!」と父親にお願いする。

 初めてラグビー観戦した試合は、「スクール☆ウォーズ」のモデルとなった伏見工業(現・京都工学院)が大阪工大高(現・常翔学園)を下して優勝した花園の決勝戦。その十数年後、平尾監督のもとでプレーすることになったのは、廣瀬にとって運命だったのかもしれない。

 廣瀬はますます楕円球の虜(とりこ)となり、小学2年から大阪・茨木ラグビースクールで競技を始め、その後、大阪府立・島本高に進学する。全国的には無名校だったが、高校2年時は花園予選を勝ち抜いてベスト16まで進出し、高校3年時は高校日本代表にも選ばれた。

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