大西将太郎は打倒・関東を貫いた「花園の申し子」 ワールドカップ連敗記録を止めた同点キックは語り草 (2ページ目)
【人生を変えた花園での敗戦】
大西は2003年ワールドカップの候補メンバーに選ばれながらも、残念ながら出場機会は訪れなかった。それだけに「2007年大会はどうしても出たい」という思いは強かった。
「苦労して日本代表に入った今までの思いと、そして初めてワールドカップの舞台に立った喜び、それらが入り混じった気持ちを味わうことができましたね」
大西は身長180cm、体重90kgと、CTBとしては決して大きくない。だが、彼のプレーを思い返せば、チームのために体を張ってタックルを繰り返す姿が鮮明に蘇ってくる。
花園ラグビー場のある東大阪市の布施ラグビースクールで、大西は小学3年から楕円球を追い始めた。自転車で行ける距離にあった花園は、大西にとって大切な場所。14歳の時に亡くなった父と一緒に、よくラグビー観戦に訪れていたという。
中学からは当時の強豪・啓光学園(現・常翔啓光学園)に進学。高校3年生の時には全国高校ラグビー大会「花園」で決勝進出を果たす。しかし、ロスタイムに愛知・西陵商(現・西陵)のトライを許して逆転負けを喫し、大西は思い出の花園で大粒の涙を流した。
「(トライ後の)相手のゴールキックはポストに当たったんですけど、そのまま入ってしまって逆転負けしました。花園の決勝で勝てなかったことが、その後も『常に日本一になりたい』という気持ちを持たせ続けさせてくれた」
花園での悔しい経験が、大西のラグビーキャリアにとって大きな原動力となった。
高校卒業後は関東の強豪大学を選ばず、「小さい頃からの憧れだった」同志社大に進学。紺とグレーのジャージーに袖を通し、「打倒・関東」を掲げた。最終学年にはキャプテンを務めて関西大学Aリーグ連覇を成し遂げ、大学選手権でも2年連続ベスト4に進出する。しかし、目標とする日本一には届かなかった。
同志社大時代、大西はSOでプレーしていた。大学4年の2000年5月には代表初キャップを獲得。同志社大の先輩になぞらえて「平尾誠二2世」とも呼ばれた。
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