入試直前まで花園で戦った
浦和高ラグビー部員は、その後どうなった? (2ページ目)
3年前、前任の小林剛先生から監督を引き継いだ当初、三宅先生には「もっと教えてもらいたい」という部員からの声が集まってきた。だが、三宅先生はそんな彼らをあえて突き放し、生徒たち自身に考えさせ、生徒たちにすべてを任せるコーチングに徹した。
「だから、花園での試合では、僕が何か指示を出せば出すほど生徒たちの動きが硬くなってしまい、全部裏目に出てしまったんです。そこで途中からは、いつも通り、全部彼らに任せるようにしました」
すると、それが生徒たちの飛躍的な伸びを生んだ。
玉島との1回戦で花園初勝利を挙げ、青森山田との2回戦ではトライ合戦を制し、年をまたいだ元旦の3回戦では、この大会で頂点に立った桐蔭学園に5対78と完敗。とはいえ、一矢を報いた伝統のモールからのトライは、まさに三宅先生の"生徒たちに考えさせ、任せる"というコーチングが結実した瞬間だったのだ。
こうして、「文武両道」の「武」でひとつの結果を残してきた浦高ラグビー部の生徒たち。それでは、もうひとつの「文」ではどうだったのか?
センター試験の直前まで花園で戦った、浦高ラグビー部3年生(当時)の「文武両道」を追ってみると......。
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「自分たちの代の13人は、2勝11敗。2勝は筑波大学の体育専門学群と人間科学群に現役合格した2人で、11敗は、東大(2人)、京大(1人)、東北大(3人)、北海道大(2人)、名古屋大(1人)、東京都立大(1人)、早稲田大(1人)に落ちた浪人の11人になります」
こと細かにそう話してくれたのは、浦高ラグビー部の元キャプテンで、花園ではナンバー8としてチームを先頭で引っ張っていた松永拓実君。
「やっぱり、花園が終わってからセンター試験までは集中できなかったですね。気が緩んでいたのかなと。急に動かなくなったので体重も増えてしまって、センター試験直後には体調も崩しちゃいましたし、早大を受験した時点で浪人を覚悟しました」
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