NBA伝説の名選手:ダニー・エインジ 負けん気を全面に出す「闘将」スタイルで存在感を発揮した名脇役
キャリア後半は、控えとしてジョーダン&ブルズに立ち向かったエインジ photo by Getty Images
NBAレジェンズ連載38:ダニー・エインジ
プロバスケットボール最高峰のNBA史に名を刻んだ偉大な選手たち。その輝きは、時を超えても色褪せることはない。世界中の人々の記憶に残るケイジャーたちの軌跡を振り返る。
第38回は、マルチアスリートから気持ちを前面に出すスタイルで多くのファンの記憶に生き続けるダニー・エインジを紹介する。
【大学時代にMLBデビューも卒業後はNBAに】
1980年代のNBAは体当たりのようなハードファウルが当たり前、乱闘も多く発生していた。そんな時代のなか、ダニー・エインジは誰よりも負けん気を前面に出すプレースタイルで存在感を発揮した選手だった。
味方からすれば心強い選手である一方、相手チームの選手、ファンにとっては憎むべき相手。ボストン・セルティックス時代の1983年のプレーオフでは216cmのビッグセンター、トゥリー・ロリンズを相手に大乱闘を演じ(エインジは196cm)、フェニックス・サンズ時代にはマイケル・ジョーダンとトラッシュトーク(罵り合い)でやり合うなど、アウェーゲームで常にブーイングのターゲットになっていた。
アメリカ北西部・オレゴン州出身のエインジは、ノース・ユージーン高校時代に万能型のアスリートとして有名になる。バスケットボールでは1976年と1977年にクラスAAAでオレゴン州のチャンピオンに輝き、フットボールでもワイドレシーバーとして注目され、野球も内野手として活躍。エインジは3競技で『パレード』誌(日曜発行の全国誌)の高校オールアメリカン・ファーストチームに選ばれた史上初のアスリートとなった。
ブリガムヤング大進学後はバスケットボールをプレーしながら、1977年にメジャーリーグ(MLB)のトロント・ブルージェイズにドラフト指名を受ける。そして1979年にメジャーに昇格すると、1981年までに211試合に出場し、打率2割2分、本塁打2本という成績を残している。
一方のバスケットボールでは、1年時からブリガムヤング大の主力となり、1試合平均21.1得点を記録。4年時の1980-81シーズンには平均24.4点を記録して全米屈指のガードと認知されたエインジは、大学の年間最優秀選手賞のひとつであるウッデン・アワードを受賞し、NCAAトーナメント(全米選手権)では、スウィート16(3回戦)のノートルダム大戦でコースト・トゥ・コースト(コートの端から端まで)のレイアップシュートを残り2秒で決めて逆転勝利に導き、大きなインパクトも与えた。
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著者プロフィール
青木 崇 (あおき・たかし)
1968年群馬県前橋市生まれ。1992年から月刊バスケットボールとHOOP誌の編集者を務めた後、1998年に独立して渡米。アメリカ・ミシガン州を拠点にNBA、NCAA、数々のFIBA国際大会を取材。2011年から拠点を日本に戻して活動を続け、Bリーグの試合で解説者も務めている。