NBA伝説の名選手:クリス・マリン 1980〜90年代の名シューターは、ドリームチームの一員としても活躍 (3ページ目)

  • 青木 崇●文 text by Aoki Takashi

【盟友・バードの下でプレーしたキャリア終盤】

 マリンの新天地となったペイサーズは、レジー・ミラーを軸に90年代にイースタン・カンファレンスの強豪へと成長してきた。かつてのライバルであり、コーチ未経験のバードが初めてHCとして指揮するチームのなかで、34歳になったマリンは先発スモールフォワードとして平均11.3点を記録。プレーオフではマリンにとって初となるカンファレンス決勝の舞台に立ち、2度目のNBA3連覇を目指していたシカゴ・ブルズと激闘を繰り広げたが、3勝4敗でシーズン終了。ブルズとのシリーズで平均6.4点に終わったことは、マリンのキャリアが終わりに近づいていることを示すものだった。

 オールラウンドな能力を持つペイサーズの成長株、ジェイレン・ローズの成長もあり、マリンは徐々に出場機会を減らし、1999-2000シーズンはバックアップとして平均出場時間が12.4分まで減少。ペイサーズはプレーオフを勝ち上がってNBAファイナルに進出したが、ロサンゼルス・レイカーズ相手に2勝4敗で優勝を逃した。

 そのシーズン終了後にペイサーズからカットされたマリンは、古巣のウォリアーズと契約したものの、2000-01シーズンを最後に第一線から退いた。

 身体能力に恵まれていたわけではなかったが、抜群のシュート力とディフェンダーに不意打ちをかける動きを武器に、16シーズンで通算1万7911点を記録。3Pショットは通算成功数は815本、成功率は38.4%だった。

「私は自分のキャリアを当然のことだとは思っていなかった。最も運動能力が高く、最速の男でもなかったけど、毎日自分のゲームに一生懸命取り組んでいた。ファンダメンタル、シューティング、賢くバスケットボールをすることに集中していた。私は自分自身のなかで最高の選手になりたかったし、そうなれたと思う」

 NBAチャンピオンにはなれなかったが、2011年4月にネイスミス・バスケットボール・ホール・オブ・フェイム(殿堂)入りを果たし、2012年3月には背番号17番がウォリアーズの永久欠番になったマリン。現役引退後はウォリアーズのフロントオフィスで重役、母校のセント・ジョンズ大で4年間ヘッドコーチ、スポーツ専門放送局・ESPNのアナリストを務めるといった人生を送っている。

【Profile】クリス・マリン(Chris Mullin)/1963年7月30日生まれ、アメリカ・ニューヨーク州出身。1985年NBAドラフト1巡目7位指名。
●NBA所属歴:ゴールデンステイト・ウォリアーズ(1985-86〜1996-97)―インディアナ・ペイサーズ(1997-98〜1999-2000)―ゴールデンステイト・ウォリアーズ(2000-01)
●NBAファイナル進出1回(2000)/オールNBAファーストチーム1回(1992)
●主なスタッツリーダー:フリースロー王1回(1998)
●五輪出場歴:1984年ロサンゼルス大会(優勝)、1992年バルセロナ大会(優勝)

*所属歴以外のシーズン表記は後年(1979-80=1980)

著者プロフィール

  • 青木 崇

    青木 崇 (あおき・たかし)

    1968年群馬県前橋市生まれ。1992年から月刊バスケットボールとHOOP誌の編集者を務めた後、1998年に独立して渡米。アメリカ・ミシガン州を拠点にNBA、NCAA、数々のFIBA国際大会を取材。2011年から拠点を日本に戻して活動を続け、Bリーグの試合で解説者も務めている。

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