NBA伝説の名選手:クリス・マリン 1980〜90年代の名シューターは、ドリームチームの一員としても活躍 (2ページ目)
【1984年ロス五輪の経験を糧にNBAへ】
ジョーダン、ユーイングと共に1984年五輪代表、そして1992年のドリームチームでプレーした photo by Getty Images その1年前、大学4年のシーズンを迎える前の1984年夏、マリンはロサンゼルス五輪のアメリカ代表メンバー入りを果たす。1992年のバルセロナ五輪でドリームチームが誕生する以前のアメリカは、大学生がFIBA(国際バスケットボール連盟)の国際大会に出場していた。マイケル・ジョーダン、ユーイングとチームメイトとなったマリンは、チームで2番目に多い平均11.7点を記録し、金メダル獲得に貢献する。
「オリンピックでプレーすることが、NBAへの準備になった。世界最高の選手たちと対戦したし、そこで私に規律とチームワークを教えてもらった。大変な名誉であり、私のバスケットボールのキャリアにおける足がかりになった」
ロサンゼルス五輪での経験をこう語ったマリンは、1985年のNBAドラフト1巡目7位でゴールデンステイト・ウォリアーズから指名される。1年目から平均14点と即戦力になると、2年目からスターターに定着し、20点以上の試合が25回を数えるなど、チームに欠かせない戦力となった。
しかし、3年目のシーズン途中、マリンは何度か練習に参加しないといった問題を起こすようになっていく。理由は、アルコール依存症だった。そのため、ウォリアーズはマリンに出場停止の処分を下すが、ドン・ネルソンヘッドコーチ(HC)のサポートを受けながら、マリンはアルコール依存症向けのリハビリ・プログラムに入所した。
「私は何かを変えなければならないことをわかっていた。それは私のキャリアだけでなく、人生そのものに影響を与えた。自分自身に正直になり、問題があったことを認め、それについて何かをしなければならなかった」
マリンは、リハビリ・プログラムによって断酒することに成功。1988-89シーズンにはNBAキャリアで自己最高の平均26.5点を記録し、初のオールスターにも選ばれた。
アルコール依存症から脱却したマリンは、ミッチ・リッチモンド、ティム・ハーダウェイという高い得点力を持ったトリオを構成。当時人気だったラップグループの『Run-D.M.C.』に倣い、3人の頭文字を使った『Run TMC』というニックネームをもらった。ネルソンHCが求める走るオフェンスのスタイルにマッチしたことで、相手からすれば非常に厄介な存在になっていたが、リッチモンドが1991年11月1日にサクラメント・キングスにトレードされたことで、『Run TMC』は消滅する。
マリンは5年連続でオールスターに選ばれるなど活躍をし続け、1992年のバルセロナ五輪でドリームチームの一員として世界中を魅了した。ウォリアーズは1993年のNBAドラフト当日のトレードでクリス・ウェバーの獲得に成功したが、ウェバーはネルソンHCと衝突してわずか1シーズンでチームを去ってしまう。
しかし、起用法が原因でGMも兼任していたネルソンHCと選手間の関係が悪化していったウォリアーズは、プレーオフに進んでもカンファレンス準決勝の壁を破ることができず、1994−95シーズンから12年にわたる低迷期に突入することになる。
「キャリアの初期、特に『Run TMC』というすばらしいチームがあったけど、その後状況が変わり、同じ成功を見つけることができなかった。ケガ、トレード、その他の問題が私たちを直面し、常に再建しようとしているような感じだった」と話したマリンは、1997年8月にインディアナ・ペイサーズにトレードされた。
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