【F1】中嶋悟は34歳で夢を叶えた 雨の激走で「日本人ドライバーも捨てたもんじゃない」とリスペクトされる存在に (2ページ目)
【日本人のイメージを変えた】
ヨーロッパで孤軍奮闘する中嶋に、翌年からホンダ・エンジンを積むことになったロータスからオファーが寄せられたのは1986年の7月だった。
当時はまだ、今よりも何倍も遠い世界だったヨーロッパへ、執念とも言える挑戦を続けたからこそ舞い込んだチャンス。もちろん速さやテクニック、経験、ホンダとの関係値など、あらゆることが揃ったからこそのオファーだったが、その根底にあったのは、中嶋が10年にわたってあきらめることなくその場所を目指し、夢を実現するために努力し続けたという事実だ。
34歳の遅咲きデビュー。
ともすれば、それはネガティブな意味で言われがちだ。しかし、それゆえに中嶋は誰よりも、F1という世界に挑むことの価値も難しさも知っていた。レーシングドライバーとしての経験も、人間としての厚みも身につけていた。
だからこそ、日本人にとって未知の世界であったF1に挑み、戦い、F1村に認められるという「歴史」を作ることができた。
アイルトン・セナ、ネルソン・ピケ、ジャン・アレジといったきら星のごときドライバーたちをチームメイトに迎えて、潰されることなく戦い、ロータスやティレルといった名門チームで走り、F1界において優れたドライバーとしてのリスペクトを得た。
おそらく、中嶋以外のドライバーであればそうはならなかっただろうし、日本人ドライバーというものへのイメージは違ったものになっていたはずだ。
初年度はブラジルのジャカレパグアやモナコといった未知のサーキットに加え、ロータス99Tが搭載した熟成不足のアクティブサスペンション、ステアリングの重さや前後左右Gの厳しさとの戦いだった。
それでも、年間16戦で4位1回、5位1回、6位2回。当時の選手権では入賞4回だが、トップ10フィニッシュは8回。今のF1に置き換えれば、初年度としては決して悪いリザルトではない。
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