パルマ移籍以降は大きなインパクトを残せなかった中田英寿、それでも彼の功績を認めたイタリア政府は勲章を授けた (2ページ目)
【ボローニャで恩師マッツォーネと再会】
リーグ戦でも序盤から黒星が先行していくと、シーズン中に監督を3度も変えることに。最終的にセリエAは10位で終えたが、コッパ・イタリアで決勝まで駒を進めた。中田は得意とするユベントスを相手に、敵地での初戦で後半追加タイムにゴール。ホームでの次戦でもコーナーキックから試合唯一の得点をアシストし、2試合合計2-2ながら、アウェーゴール差で優勝を遂げた。
「ユベントス戦では、幸運が味方してくれますね」と試合後に、中田は報道陣に冗談を言った。このコッパ・イタリアはパルマのクラブ史上最後のタイトルとなっている。
自国で開催された2002年W杯でベスト16に入った後、パルマに戻ってくると、そこにはまた新しい指揮官がいた。チェーザレ・プランデッリ監督は自らのシステムに選手を当てはめていくタイプの指導者で、この時は中田を右のウイングで起用したが、うまくいかなかった。中田は「右ウイングは自分のポジションではない。心理的にも窮屈になってしまうんだ」と話して、2004年1月には新天地を探した。
チェルシー、ミラン、パリ・サンジェルマン、そしてペルージャも中田を迎えたがっていたが、ペルージャで師事したカルロ・マッツォーネ監督に誘われて、ボローニャに期限付きで移籍。前のシーズンまでブレシアを率い、ロベルト・バッジョやペップ・グアルディオラ、アンドレア・ピルロら、新旧のテクニシャンたちと心を通わせ、彼らの力を最大限に引き出していた名伯楽は、中田とも似たような関係を築いていた。中田は打ち明ける。
「マッツォーネさんと電話で話して、即座に気持ちがほぐれていくのを感じました。彼のことはすっかり信頼しているので。パルマのファンには、自分の価値を証明しきれなくて、申し訳ないと思っています。監督に自分のポジションではないところで起用されたとしても、プレーの責任は自分にあるので」
私が勤務する新聞は当時、「この冬一番の新戦力だ」とボローニャに加わった中田を評し、新天地で最初のトレーニングには6000人ものファンが集まり、中田の公式サイトのアクセス数は倍増。しかし2003-04シーズンの後半戦は17試合に出場し、直接FKからのゴールを含む2得点に終わり、期待されたほどのインパクトは与えられなかった。ボローニャは正式契約を結ばず、パルマはフィオレンティーナからのオファーを受け入れて、中田は花が咲き誇る街フィレンツェへ向かった。
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