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プレミアリーグを彩るマンチェスターのふたつのクラブ ユナイテッドとシティの興亡 (2ページ目)

  • 後藤健生●文 text by Goto Takeo

【"アイドル"ジョージ・ベストと"大人の色気"デニス・ロー】

 第2次世界大戦が終わった1945年に監督に就任したサー・マット・バスビーの下で1950年代後半に黄金期を迎えたユナイテッドだったが、1958年2月には「ミュンヘンの悲劇」で主力を失ってしまう。

 ユーゴスラビアのレッドスター・ベオグラードと対戦して帰国するユナイテッドを乗せた飛行機が、給油のために立ち寄ったミュンヘンの空港で雪のために離陸に失敗したのだ。

 命を取り留めたバスビー監督はチームの再建に着手。1964-65シーズンにFLのタイトルを奪回。1966-67シーズンにも優勝したユナイテッドは、とうとう翌年ビッグイヤーを手にしたのだった。キャプテンとしてそれを支えたのも、やはり「ミュンヘンの悲劇」で生き残ったチャールトンだった。

「ミュンヘン後」の若い世代を代表したのが、当時はまだ珍しかった長髪をなびかせ、「サッカー界のビートルズ」と呼ばれた天才ドリブラーのベストだった。ベストは世界中でアイドルとなった。

 こういう言い方はあれだが、当時のイングランドにはルックスのいい選手は少なかった。当時のフットボール、とくにイングランドのそれは屈強な大男たちが激しくぶつかり合ってボールを奪い合う、肉弾戦の連続だった。

 たとえば、ユナイテッドのMF、"潰し屋"ノビー・スタイルズがそんなタイプだった。今のサッカーだったら一発レッド間違いなしの荒っぽいタックルで、相手のエースを潰すのが彼の仕事だった。当時は、そんなタックルも許容されていたのだ。

 ベストはそんなフットボーラーのイメージを覆した。

 まだスペースも時間も与えられている時代だったから、ベストはパスを受けるとゆっくりと向き直ってから、エレガントに相手のフルバック(現代でいうサイドバック)に1対1の勝負を仕掛けたのだ。

 ローは、ベンフィカ戦には負傷のため出場していないが、彼も武骨なフットボーラーたちのなかで異彩を放っていた。金髪で長身(当時は175cmでも長身の部類に入った)。苦み走った風貌で、まるで映画俳優のような雰囲気があった。ベストが新世代の若者だとすれば、ローは大人の男の色気を発散させていた。

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