レアル・マドリード本拠地「サンチャゴ・ベルナベウ」100年の歴史 改修後の新システムの数々~欧州スタジアムガイド (2ページ目)
クラブは1902年に誕生したが、しばらくはホームスタジアムを転々とした後、1924年、中心部から北に4kmほどのチャマルティン地区に、「エスタディオ・チャマルティン」を建設した。だがこのスタジアムでは1936年~39年の間はスペイン内戦の影響でチームはプレーできず、スタジアム自体も戦火で大きなダメージを受けた。
1943年、往年の選手で主将も務めたサンチャゴ・ベルナベウが満場一致で会長に選出されると、スタジアムを改修することを決めた。第二次大戦後の1947年、新しいチャマルティン・スタジアムは「ヌエボ・エスタディオ・チャマルティン」という名で完成。その円形状のフットボール場は欧州でも賞賛の的となったという。その後、クラブは積極的な補強を行ない、アルゼンチン代表のアルフレッド・ディ・ステファノらを獲得。そのディ・ステファノはレアル・マドリードに21年ぶりのリーグ優勝をもたらした。
また、ディ・ステファノを見たいというファンの要望に応えるため、クラブはスタジアムを125,000人収容に改修。1955年には会長であるベルナベウに敬意を示して「エスタディオ・サンチャゴ・ベルナベウ」という名がつけられた。レアル・マドリードは、1955/56年~59/60年まで欧州王者に5年連続で輝くなど黄金期を迎えた。
その後、スタジアムは1982年スペインワールドカップ(W杯)のために改修され、収容人員は90,000人へと減少。スタジアムではW杯の決勝も開催され、その4年前に亡くなったサンチャゴ・ベルナベウ会長の記念碑の除幕式も行なわれた。1994年にはイタリア・ミラノのスタディオ・ジュゼッペ・メアッツァ(愛称サンシーロ)をモデルに約100,000人収容のスタジアムになったが、1998-99シーズンは安全面の確保から立ち見席はなくなり、全座席制となり収容人数は約75,000人へ削減。その後、2003年には5000人ほど座席が増やされ、約80,000人の収容が可能となった。
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