オリンピックサッカー史上最高の試合!「サッカーに詳しくない観客も引き付けられていった」ことにベテラン記者が驚いた一戦とは? (2ページ目)

  • 後藤健生●文 text by Goto Takeo

【五輪の参加資格の変遷】

 五輪の参加資格の変遷をおさらいしておこう。

 1896年に近代五輪が始まってからずっと、五輪はアマチュアだけの大会だった。

 サッカーにおいても、第2次世界大戦前は英国4協会とオーストリア以外には正式なプロ制度がなかったから、各国とも若手主体のフル代表を参加させていた。

 1936年のベルリン五輪で、日本は1回戦でスウェーデンに3-2で勝利。2回戦ではイタリアに0-8と完敗を喫した。この時、日本と対戦したイタリアは1934年イタリアW杯と38年のフランスW杯を連覇したヴィットリオ・ポッツォ監督が率いる若手主体のフル代表だったのだ(このベルリン五輪でも金メダル)。実際、日本と対戦した選手の何人かは1938年のW杯にも出場している。

 だが、第2次世界大戦後は西欧各国でサッカーが正式にプロ化したので、冒頭にご紹介したように、その後は東欧の社会主義国の時代が続いた。

 ところが、1970年代になると五輪を主催するIOC(国際五輪委員会)は、一転してプロの参加を容認する。五輪大会の注目度を上げて、テレビ放映権収入を拡大するためだった。

 サッカーでもプロの参加が認められた。しかし、FIFAはW杯との差別化を図るために、すべての選手に門戸を開くことはなかった。

 IOCとFIFAの思惑が錯綜した。そして、1988年のソウル五輪では「W杯に参加したことがないすべての選手」に五輪参加資格が与えられた。

 つまり、2年前の1986年メキシコW杯以降にフル代表に加わった選手は、年齢に関係なく参加できたのだ。そのため、ソウル五輪には錚々たる顔ぶれが集まった。

 ソウル五輪で優勝したソビエト連邦(ソ連)は、同年に開かれた欧州選手権(EURO)でも準優勝していたが、その時の中心選手アレクセイ・ミハイリチェンコ(ウクライナ人)はソウル五輪でも活躍。西ドイツはユルゲン・クリンスマンやトーマス・へスラーといったフル代表の主力が出場していたし、ブラジルからはGKタファレルやジョルジーニョ、ロマーリオ、ベベットといったメンバーが参加した。

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