丹羽大輝、当時34歳 コロナ禍で下した決断「誰もが臆病になっていた時期だからこそ、僕は攻めの選択をしたかった」 (2ページ目)

  • 高村美砂●取材・文 text&photo by Takamura Misa

 1時間おきぐらいに状況が動くヨーロッパの移籍ウインドウでは、『契約しましょう』という話になってから日本を出発したのでは、時差や手続きの煩雑さを考えてもおそらく間に合わない。ましてや、当時はコロナ禍の真っ只中で世の中も不安定でしたから。飛行機もいつ飛ばなくなるかもわからなかったので、早めに予約しておいたんです。そしたら、出発した日に(首都圏を対象に)緊急事態宣言が出されて焦りました(笑)」

 出発の日に彼から届いた写真には、空港の出発便を示す掲示板に「欠航」の文字がズラリと並んでいたのを思い出す。そんななか、唯一「運行」と記されていた便が、丹羽の予約していた飛行機だったという幸運にも背中を押され、彼は2021年1月7日、フランクフルト経由でスペイン・ビルバオに渡った。

「30歳をすぎた頃から『自分で生きていく力をつけなければいけない』と思うことが増えていたなかで、その考えがコロナ禍に直面してより強くなったというか。この先は、どの職業も縦のつながりや過去の関係性だけで仕事をしていくのが難しくなるはずで、そうなればひとりの人間として問われることがもっと増えるだろうと思ったんです。

 であればこそ、僕自身ももっといろんな経験をして、いろんな力を備えていかなければいけないな、と。世の中的には誰もが動き出すことに臆病になっていた時期でしたが、そういう時だからこそ、僕は攻めの選択をしたかった」

 もっとも、移籍先が簡単に決まることはなく、現地に渡ってからも交渉の難しさに直面し、翻弄され続けた。当初、彼の獲得に意欲的だったクラブも、契約成立を目前にして監督が解任となり、話は白紙に。他クラブをあたっても、話が進みかけては頓挫して、を繰り返した。

 それでも、現地の伝手(つて)を頼りに人の輪を広げ、いろんなチームに練習参加をさせてもらいながらトレーニングを積み、語学学校に通って言葉を覚え、スペインという国やスペインサッカーを学びながら可能性を探った。

 そのなかで、4部リーグのセスタオ・リーベル・クルブとの契約交渉がまとまったのは3月上旬だ。その際も就労ビザの取得に手こずり、さすがに「これでアカンかったら厳しいかも」と心が折れそうになったが、最後はサッカーがつないでくれた縁にも助けられ、ビザ取得に漕ぎつけた。愛する家族にも支えられて。

「妻は僕がスペインでプレーしたいという思いを伝えた時からずっと、『パパがやりたいようにやればいい。スペインでも、国内でも、それ以外の選択をしても、パパなら大丈夫ってわかっているし、私や子どものことは考えなくていいよ』と背中を押してくれていました。どんなアクシデントも、それを一緒になって面白がり、笑い飛ばしてくれた。

 当時、10歳、7歳、4歳だった3人の子どもたちをひとりで見るのは大変だったはずですけど、不平不満は一切漏らさず、僕と一緒に夢を追いかけ続けてくれた。そんな家族がいたのはホンマに心強かったし、だからこそ、家族に胸を張れる生き方をしよう、妻や子どもたちが自慢できるパパでいよう、と踏ん張れたんだと思います」

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