旗手怜央が語る甲子園準優勝の父親の存在「いつも背中を押してくれた」「今も大切にしている言葉がある」 (2ページ目)

  • text by Harada Daisuke
  • photo by Getty Images

【大きく感じた父の背中】

 小学校の高学年になった頃、父は仕事の都合で海外に単身赴任した。自分も中学卒業と当時に、静岡学園高校に入学し、寮生活を始めたため、父親と暮らした期間は短かった。

 今思うと、同じスポーツ選手として、また、ひとつの競技で結果を残してきた人として、一緒に過ごす時間が長ければ、教えてもらえること、学べることはたくさんあったのではないかと考えるところもある。

 離れて生活していたが、節目ではいつも父親に相談していた。

 あれは、もっとサッカーがうまくなりたいと、静岡学園高校への進学を決意した時だった。ジュニアユースを過ごしたFC四日市の監督からは、当初、静岡学園高校への進学を懸念されていた。当時の僕は技術が乏しく、静岡学園高校に進学しても、試合に出られる可能性は低いのではないかと心配してくれていたのだ。

 だが、その足りない技術を養うために、静岡学園高校に行きたいと考えていた自分は、電話で父親に相談した。きっと、僕の意志の固さや決意の強さを母親から聞いて知っていたのだろう。父親は反対することなく、背中を押してくれた。それは大学への進学を相談した時も一緒だった。事前の相談ではなく、事後の報告にしたのは川崎フロンターレへの加入を決めた時だけだ。その時は自分も社会人として一歩を踏み出すとあって、相談することなく自分で決めてから家族に報告した。

 静岡学園高校への進学を反対しなかったのは、父親自身も高校生の時に親元を離れ、寮生活によって得られる経験の大きさを知っていたからかもしれない。実際、母への感謝が芽生えたのは、身の回りのことを自分でやらなければならなくなった高校生になってからだった。その母親への感謝については、別の機会があれば綴りたい。

 また、父親の背中が、自分を奮い立たせる契機にもなった。

 あれは高校生の時だった。静岡学園高校での活躍が認められ、サッカーメディアから取材を受ける機会があった。初めて自分が記事に載ることに胸を躍らせ、内容を見ると、半分以上が高校球児として活躍した父親のことが書かれていた。

 何とも言えない悔しさ......。その時の心境は今も覚えている。

 同時に、サッカーで父親を抜いたと思えるほどの活躍をしなければ、ずっと父親のことを書かれるのだろうとも感じた。それくらい高校時代に甲子園で準優勝を経験し、社会人野球の選手としても活躍した父親は、自分にとって簡単に超えることのできない存在だった。自分もサッカーでプロを目指そうと思えば思うほど、その背中は大きく感じられた。

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