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海外記者から見た東日本大震災後の日本。サッカー日本代表が果たしていた役割 (2ページ目)

  • サイモン・クーパー●文 text by Simon Kuper
  • 森田浩之●訳 translation by Morita Hiroyuki

 その後数十年は、戦後の復興と経済成長をめざす歩みが国に一体感をもたらした。だが、1990年ごろになると、そんな空気も薄らいできた。日本でサッカー人気が高まりはじめたのは、ちょうどそのころだった。僕の印象では、スタンドが日の丸で埋まった2002年以降、日本はしだいにサッカーの代表を中心に団結するようになったと思う。

 今回の震災以降は特にそうだ。日本の友人に聞いたところでは、ヨーロッパでプレーする日本選手たちが公共CMに登場し、「日本の強さは団結力です」「日本がひとつのチームなんです」といったメッセージを発しているという。今はサッカー選手が、日本という国を体現する存在になっているということではないか。

 世界のどこの国でも、人々はサッカーの代表チームを「肉体を持った国家」のように思っている。ユニフォームを着てピッチに立つあの11人の若者たちは、まさに国家だ。君主ほど特別な存在ではなく、国旗と違って息をしており、GDPと違って手で触れられる。偉大な歴史家エリック・ホブズボームは、1930年代に母国オーストリア代表の試合を見た経験を振り返ってこう書いた。「数百万人のつくる『想像の共同体』は、選ばれた11人のチームによって、よりリアルなものになる」。

 代表チームは、国民がほかに共通の要素をほとんど持たない場合に、とくに重要な役割を果たす。たとえばナイジェリアやコートジボアールのようなアフリカ諸国では、言葉も異なる多くの部族で構成される国をひとつにするものは、サッカーの代表くらいしかなかった。

 日本代表が強くなるにつれて、日本人はこのチームを日本の象徴として見たがるようになっていった。その長所も短所もひっくるめて、日本代表はその名のとおり「日本」の代表なのだ。僕の仕事仲間である森田浩之が著書『メディアスポーツ解体』で指摘しているように、日本人は日本代表が「個の力」より「組織力」に優れていると言いたがる。それはまさに日本人自身がイメージする、ステレオタイプな日本人の自画像だ。

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