スーパースター、R・バッジョの今。渋谷で語ったカズへの羨望と今後の夢 (2ページ目)

  • 利根川晶子●文 text by Tonegawa Akiko
  • 山添敏央●写真 photo by Yamazoe Toshio

 サッキをユースのテクニカルコーディネーターに据え、往年のスター選手ジャンニ・リベラをユーススクールの責任者に迎えるなど、ドリームチームのような人材を集めた。バッジョもそのうちのひとりであった。過去に対立があったとはいえ、サッキも(形だけかもしれないが)バッジョの就任を歓迎した。

 数年間の充電期間を経て、バッジョは再びサッカーに関わる気力を取り戻していた。少し前から監督のライセンス取得コースにも通っていた。しかし、何より彼がそのポストを受け入れたのは、若い才能を伸ばし、十分に発揮してほしいと思ったからだ。背景にはバッジョ自身の苦い経験もあっただろう。

 就任から数カ月後には、バッジョは900ページにも及ぶプロジェクト提案書を書き上げる。タイトルは「コヴェルチャーノ・テクニカル部門の新たな活動」。イタリアを100の地区に分け、それぞれの地区に信頼すべき監督を何人か派遣し、その地区で行なわれる試合をすべて見ることで、才能を見逃さないようにすることを提案した。また、緻密な情報網を作り、優秀な選手たちに適切な環境とチャンスを与えることも強調。同時に若手育成機関のレベルを底上げし、低年齢でも元プロ選手などに指導を任せることなどを盛り込んだ。

 バッジョが最も主張したかったのは、"すべては才能を基本"とすることだった。フィジカルやテクニックを鍛えるよりも、まず才能を伸ばすことが重要であるとした。バッジョがこんな提案をしたのは、なによりカルチョにファンタジーを取り戻したかったからだと思う。

 だが、彼の意見は、ほとんど無視されることになった。その理由は、あまりにも費用や人手がかかること、そして何より彼の提言が、従来からの利権を脅かすものであったからだ。バッジョの提案は、彼が所属するテクニカル部門の枠から大きくはみ出していた。

 もちろん、バッジョの書いたものがすべて正しいというわけではないが、吟味するに値する点はたくさんあった。しかしその内容が、協会の中で議論されることさえなかった。バッジョは自分がただのお飾りに過ぎないと感じ、2013年の1月、失望とともに協会を去った。

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