柴崎岳、指揮官の信頼に応えられず。名門デポルはなぜ転落したのか
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「最終節を再試合にすべきだ!」
デポルティーボ・ラ・コルーニャのフェルナンド・ビダル会長は、憤りと悲嘆を滲ませて語っている。
リーガ・エスパニョーラ2部の最終節、フエンラブラダはデポルの本拠地に乗り込んでいる。しかし、試合前のPCR検査で、遠征選手の6人が新型コロナウイルスの陽性反応を示したことを確認。他にもスタッフなど合計12人の陽性者が出た。
試合は急遽、延期になった。公衆衛生や選手の健康面の理由で、他の試合も中止が検討されたという。しかし結果的に、他の10試合はすべて開催された。ビダル会長は、その不条理を訴えているわけだ。
デポルは1試合を残し、2部B(実質3部)へ降格することが決まった。フエンラブラダに勝利すると、残留圏18位のポンフェラディーナと勝ち点で並ぶが、直接対決で劣っているため、降格圏の19位以下を抜け出せない。気の毒な結末となったが、シーズンを戦っての結果と言える。降格の決定が覆る可能性は低いだろう。
なぜ、かつてヨーロッパサッカーを席巻し、日本にもファンが多かったデポルが、3部にまで降格することになったのか――。
デポルティーボ・ラ・コルーニャを残留に導くことはできなかった柴崎岳 1990年代、デポルは名将アルセニオ・イグレシアス監督の堅実な戦いで頭角を現し、「スーペル・デポル」と異名を取る。マウロ・シルバ、ベベットらブラジル人選手を擁し、1993-94シーズンは最終節にリーガ優勝を逆転で逃すが、1994-95シーズンにはスペイン国王杯で優勝。あまり知られていないことだが、スペインにおけるブラジル人選手の補強ラインを確立したのは、彼らである。
そして「スーペル・デポル」をベースに、ハビエル・イルレタ監督は、ジャウミーニャ、ロイ・マカーイ、ディエゴ・トリスタン、フアン・カルロス・バレロンを擁し、屈強なチームに仕上げた。
1999-2000シーズンには、悲願のリーガ優勝。欧州カップ戦では、アーセナル、マンチェスター・ユナイテッド、バイエルン、ユベントス、ミランなど、強豪クラブを次々に血祭りにあげている。2003-04シーズンには、チャンピオンズリーグ準決勝で、ジョゼ・モウリーニョのポルトと死闘を演じた。
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