もうひとつのW杯を沖縄で。サッカー琉球代表がFCコリアと対戦 (2ページ目)

  • 木村元彦●文 text & photo by Kimura Yukihiko


 琉球代表はこの試合のために結成された、いわば沖縄県選抜であり、大学生を主体としたチームである。在日コリアンと沖縄人、まさに日本社会の中で非対称のマイノリティとして、自分たちのアイデンティティを堅持して生きている人々同士の対戦であり、ConIFAの趣旨にも合致する。この試合を実現させたのは任意団体の琉球フットボール協会(以下琉球FA)を主宰する宮城亮である。

 コザ(現沖縄市)で生まれ育った宮城は1970年に起きたコザ暴動の話を幼い頃から親から聞かされていた。当時は米国軍属が罪を犯しても琉球警察は捜査権を持たないために、酷い人権侵害が多発していた。コザ暴動は暴動と呼称されているが、米国施政下の圧政に対して起きた沖縄市民による蜂起とも言えた。

「沖縄人(ウチナンチュー)の自分たちにはどうしても守らなくてはいけないものがある」という教えが、子どもの頃から自然に身についていた宮城には夢があった。自分たちの自尊心やプライドを平和裏にスポーツで発信していくことである。沖縄国際大学の大学院を修了するとFC岐阜に就職し、そこで今西和男社長の薫陶を受け、Jリーグで最多の回数(2010年~2012年)を誇った岐阜のホームタウン活動を地域貢献推進部部長としてけん引する。指導現場では歌って踊って「どんな子どもも宮城が来ると楽しげにボールを蹴る」と言われた。

 敬愛する今西が当時のJリーグ・クラブライセンス事務局の人事介入によって解任されると、宮城はFC岐阜を辞めて沖縄に戻って一般社団法人IGSを立ち上げた。そこでのスポーツ振興活動は現在に至るまで多岐にわたる。サッカー選手であり、プロデューサーであり、デザイナーであり、ミュージシャンであり、芸人でもある。

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