【EURO】04年、監督の采配が生んだチェコ対オランダの大逆転劇 (3ページ目)
チェコには穴があった。敢えて穴を作っていたというべきだが、このギャップをオランダは上手く突くことができなかった。むしろバランスを乱されていた。最も困惑していたのがフリーでいるはずのロッベンであるところがミソだった。
彼はどうするべきか迷っていた。左ウイングの位置を常時維持すべきか、下がるべきか。その下で構えるオランダの左サイドバック、ファン・ブロンクホルストのサポートに回るべきか。
ファン・ブロンクホルストは、スミチェルとポボルスキーの「ダブルウイング」の攻撃を浴び、専守防衛を強いられていた。形勢不利な状況に置かれていた。チェコの攻撃の多くは、その右サイドから生まれていた。その状況を阻止するには、ロッベンが帰陣するしか方法はない。ロッベンは中途半端なポジション取りを強いられ、マイボールに転じたときも、前半の立ち上がりのように、ボールに絡むことができなくなっていた。繰り返すが、マークを背負っていないにもかかわらず。チェコが右サイドバックを置かない変則3バックで臨んでいるにもかかわらず、だ。
右サイドバックを置かない変則3バック。何を隠そう、このブリュックナーの作戦に、日本人である僕は見覚えがあった。時はその50日ほど前。4月29日。場所はチェコのプラハ。久保竜彦の決勝ゴールで日本がチェコに1—0で勝利した一戦だ。
この時もチェコは、オランダ戦と似た布陣を敷いていた。事実上、右サイドバックはいなかった。右サイドを務めていたのはロシツキーとポボルスキー。立ち上がりはそう見えたが、ロシツキーはその後、右サイドに張ることはなく、真ん中付近でプレイした。右サイドはポボルスキー1人の状態でほとんどの時間を戦った。
だが彼は右サイドバックが本職ではない。本来はウイングプレイヤーだ。1人の状態になると、後ろではなく前で構えた。よって、右サイドバックは不在になった。残る最終ラインの3人が、そこをカバーしようと、均等に広がって構えたわけではない。描かれた図はオランダ戦と同じだった。
日本の布陣が3-4-1-2だったこともある。左サイドは三都主アレサンドロがウイングハーフとして構えていただけだった。チェコの右サイド=日本の左サイドは1対1の図ができ上がっていた。
ブリュックナーは日本の布陣を見て、臨機応変に対応した。
そのおよそ50日後、オランダ対チェコ戦の現場で、まさかその記憶が蘇るとは夢にも思わなかった。そしてそのことが勝負を分けるポイントになるとは。
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