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横浜F・マリノスの"木村和司政権"はなぜ、わずか2年で終わりを告げたのか 「周りがしっかり支えていたら...」 (2ページ目)

  • 浅田真樹●取材・構成 text by Masaki Asada

 しかしそうであれば、木村の理解者を周りに置くべきだったのではないか。そうも考える水沼は、木村の監督就任が決まったときには、「自分もコーチに呼ばれるかなと思った」と振り返り、残念がる。

「ある意味、象徴的な存在でよかったんじゃないですかね。それこそ、(マンチェスター・ユナイテッドで27シーズン、監督を務めたアレックス・)ファーガソンみたいな。周りがしっかり支えていたら、今頃、まだ(木村が監督を)やっていたかもしれないですよね」

 木村と水沼が現役を引退し、すでに30年以上が経過した。

 だが、水沼のなかで、木村とともにプレーした日々の記憶は決して色あせてはおらず、当時を「めちゃ楽しかったですね」と振り返る。

 無口な天才肌で、人を寄せつけない雰囲気もある先輩だったが、一緒に対話を重ね、それをプレーに落とし込んできた後輩にとっては、「サッカーの話を深くするのは、すごく面白かった」。

 それが水沼貴史から見た、木村和司という特別な存在だった。

 しかし、技術でピッチ上を支配することのできた木村が、常々口にしていたのは少々意外な言葉であり、だからこそ、水沼は強く印象に残している。

「最後は気持ちよ」

 思いのままにボールを操る天才プレーヤーは、それでも自分の才能にあぐらをかくことがなかった。

 それどころか、サッカーという競技の本質を極めればこそ、そんな境地にたどりついたのかもしれない。

 水沼が懐かしそうにつぶやく。

「テクニカルなことや、ロジカルな話も結構するんだけど、でも、最後は気持ちだって、若いヤツにもず~っと言ってました。それはすごいなって思います」

(文中敬称略/つづく)

木村和司(きむら・かずし)
1958年7月19日生まれ。広島県出身。広島工業高→明治大を経て、1981年にJSL(日本サッカーリーグ)の日産自動車(横浜F・マリノスの前身)入り。チームの主軸として数々のタイトル獲得に貢献した。その間、日本代表でも「10番」を背負って活躍。1985年のメキシコW杯予選における韓国戦で決めたFKは今なお"伝説"として語り継がれている。横浜マリノスの一員としてJリーグでもプレー。1994年シーズンをもって現役を引退した。引退後は解説者、指導者として奔走。日本フットサル代表(2001年)、横浜F・マリノス(2010年~2011年)の指揮官も務めた。国際Aマッチ出場54試合26得点。

水沼貴史(みずぬま・たかし)
1960年5月28日生まれ。埼玉県出身。浦和市立本太中、浦和南高で全国制覇を経験。その後、法政大学を経て、1983年にJSL(日本サッカーリーグ)の日産自動車(横浜F・マリノスの前身)入り。金田喜稔、木村和司らとともに数々のタイトルを獲得し、黄金時代を築く。ユース代表、日本代表でも名ウイングとして活躍した。1995年、現役を引退。引退後は解説者、指導者として奔走。2006年には横浜F・マリノスの指揮官を務めた。国際Aマッチ出場32試合7得点。

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